難民になる前の 社会的地位や立場、力関係がそれとなく 皆の意識の底で働くのかもしれません。手を合わせ、地面に額をこすりつけての懇願や説得…場合によっては恫喝、強要も、あったでしょう。ところが問題は 事が終わったそのあとだったそうです。生け贄になった人たちと、難を免れた人たちの間の、なんとも言えぬ空気なんですって。アッケラカンとお礼を言うのも躊躇われるし、無意識のうちに抱いていた差別感や、性行為に対するタブーから 「汚らわしい」という目で見る輩がメンバーの中に、結構いたとのこと…ありそうなことです。
どうも極限状態になると、人間という動物は …。大陸に孤児が残されてしまうのは仕方のないことかもしれません。楠田立身さんの歌は …身体を張って仲間を守った女性、仲間のために戦った女性に、改めて謝意を表した三十一文字だと、私は捉えましたが、そういう犠牲者も、既に九十歳前後になっておられるのですなあ。HU
その夏、私は満十二歳だった。一九四五年(昭和二十年)のハ月、日本が第二次世界大戦に敗れた年である。当時、私たち一家は父の仕事の関係で、朝鮮半島北部の平壌という街に住んでいた。いまの朝鮮民主主義人民共和国の首都のピョンヤンである。戦争に敗ける、という経験は、私たち日本人にとっては、はじめてのことである。しかも情けないことに、いままで植民地として支配していた土地で敗戦国の国民になることの重い意味が、私たちにはぜんぜん理解できていなかったのだ。