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君死にたまふことなかれ
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堺の街のあきびと(商人)の 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ◆ほろびずとても何事か ◆君知るべきやあきびとの 家のおきてになかりけり ◆ほろびずとても何事ぞ
| 堺の街のあきびと(商人)の 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か 君知るべきやあきびとの 家のおきてになかりけり ほろびずとても何事か |
はまったく対照的ですね。 この夫婦の詩の違いはなぜか? に疑問を持ち、調べてみました。 すると、「君死にたまふことなかれ」 はたんに弟を思う肉親の情を歌ったものであり、彼女は真の反戦平和主義者ではなかった、という批判に出会いました。 この説によれば、昭和に入り15年戦争が始まるころになると、晶子は反戦よりもむしろ戦争協力的な姿勢に転じます。 昭和7年には、「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」 と述べています。 鉄幹が軍歌 「爆弾三勇士」 を作詞したのもこの年です。 この説を述べているのは、日中戦争の従軍体験を持つ、 "浪速の反戦詩人" 井上俊夫氏で、彼はこう書いています。
つまり晶子は 『君死にたまふことなかれ』 を書いた頃より一貫して皇室尊崇者としての立場を守り、皇国史観に基づく歴史観、世界観、戦争観、軍隊観を持ち続けてきたのである。 ヒューマニズムに基づく反戦平和論を唱えていた一時期でも、晶子が抱くこうした基本的なイデオロギーは変わらなかったものと思われる。 これでは晶子が、日本の中国に対する侵略戦争の実体を見抜けず、それを支持したのも当然と言わねばなるまい。 「君まちがうことなかれ」
「わたしはかつて東条の用賀の家(東条がピストル自殺を図り、未遂に終わった) で、東条の娘光枝を取材したことがある。 畳の部屋で行李一杯の手紙やはがきを見せられた。 日本中から寄せられた一般の国民からの郵便物だった。 内容は二つに大別された。 『米英撃滅』、『鬼畜米英を倒せ』、『猶予は亡国、即時立て』 といった戦争を強く促す内容と、『何をぐずぐずしている』、『弱虫東条』、『いくじなしはヤメロ』 といった 『ぐずぐずしている』 東条批判である。 東条が首相になってから開戦までの五〇日あまりに三〇〇〇通以上来たと言うことだ。」(田原総一郎著、『日本の戦争』より)もともと東条は 彼なら軍部を押さえられるだろうということで登用されたのですが、しかし、もはや時代の趨勢はそうではなかった。 新聞は勇ましい主戦論を展開し、軍部と政府の弱腰を批判し、国民も戦争を熱望していたわけです。
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あゝおとうとよ、君を泣く 君死にたまうことなかれ 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしえしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや | すめらみことは、戦ひに
おほみづからいでまさね 互に人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人の誉れとは おほみこころの深ければ もとより如何で思されん |
晶子のこの詩に文芸批評家大町桂月は、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」 とかみついた。 これに対して晶子は、『明星』十一月号に 「ひらきぶみ」 を発表した。 現代文に直したものの一部を紹介しよう。
「私の 『君死にたまふことなかれ』 という歌は戦地にいる弟への手紙のはしに書き付けてやったものです。 それがどうしていけないのですか。 あれは 『歌』 なのです」 「この国に生まれた私は誰にも劣らない愛国心をもっております」 「堺の私の実家の父ほど 『天子様を思い』 御上の御用に自分を忘れて尽くした商売人はありません」 「私は 『平民新聞』 の議論など、ひとこと聞いただけで身震いがする者です」 「女は元来戦争が嫌いなのです。 だが、戦争をするのは国のためにやむを得ないのだと聞かされると、では戦争に勝って欲しい、勝って早く戦争を終わらせて欲しいと願う者なのです」 「大町桂月氏は私の詩にたいそう危険な思想があると仰せになりますが、当節のようにむやみと死ね死ねと言ったり、なにか論じる際にやたらと忠君愛国の文字を使ったり、畏れおおい教育勅語の言葉を引用したりする方が、むしろ危険なのではないでしょうか。 私の好きな王朝文学にはかように死を賛美する言葉は見当たりません」 「いま新橋や渋谷などの駅へ行くと、出征軍人の見送りにきた親兄弟、親類、友達などがみんな兵士に向かって 『無事で帰れ、気をつけよ』 と言い、万歳を叫んでいます。 つまり、みなさんは私の歌と同じように 『君死にたまふことなかれ』 とおっしゃっているのではないでしょうか。 見送りの人々の声がまことの声なら、私の歌もまことの声から発したものなのです」愛国的な評論家から批判されたことで、かえってこの詩の評価は高くなり、多くの人々の共感と拍手喝采を得た。 そして晶子自身も、多くの庶民の声を代弁して、反戦平和のヒューマニストとしての道をまっすぐに歩んでいく。 1917年(大正6年)に発表した評論 『私達の愛国心』 では、「国家主義の上に築かれた国家は個人と衝突するとともに他の国家と衝突する。 則ち戦争の予想される不安定な国家である。 低級な国家である」 と国家主義を否定している。 さらに、学校の軍事教練をやめよと主張し、シベリヤ出兵に際しては 『何故の出兵か』 を書いて反対し、海軍軍備制限をめざすワシントン会議を支持し、軍事力縮小に反対する 「軍人者流の浅薄な議論」 を批判している。 この頃は、大正デモクラシーの隆盛した時代で、晶子ならずともこうした議論はさかんであった。 民衆の気分も大方こうしたもので、その先頭に立って、晶子は 「平和主義」 「反国家主義」 「反軍国主義」 の旗を勇ましく、情熱的に振っていた。 ところが、1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、やがて満州国という日本の傀儡国家が樹立されると、日本の国論は一変して、軍国主義賛美に傾き始める。 そして、これと軌を一にするように、晶子も侵略戦争を手放しで賛美し始める。
「私は以前から、支那の国民と其の支配者たる各種の軍閥政府とを別々のものとして考えている」(昭和6年 『東四省の問題』) 「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」(昭和7年『支那の近き将来』) 「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」(昭和7年『日支国民の親和』) 「私の常に感謝している事が幾つかある。 中にも第一に忝なく思う事は、日本に生まれて皇室の統制の下に生活していることの幸福である。・・・日本は同じ法治国と云っても、権利義務の思想のみを基本とする国でなく、先史時代より皇室を中軸として其れに帰向する国民の超批判的感情に由って結合された国である」(昭和7年『日本国民たることの幸ひ』)
| 忠魂清き香を伝え
長く天下を励ましむ 壮烈無比の三勇士 光る名誉の三勇士 |
つまり晶子は 『君死にたまふことなかれ』 を書いた頃より一貫して皇室尊崇者としての立場を守り、皇国史観に基づく歴史観、世界観、戦争観、軍隊観を持ち続けてきたのである。 ヒューマニズムに基づく反戦平和論を唱えていた一時期でも、晶子が抱くこうした基本的なイデオロギーは変わらなかったものと思われる。 これでは晶子が、日本の中国に対する侵略戦争の実体を見抜けず、それを支持したのも当然と言わねばなるまい。たしかにその通りだと思うが、満州事変を境に豹変したのは、大方の文化人や大新聞の論調も同じだった。 与謝野晶子のように平和を愛好していた筋金入りのヒューマニストたちまでがこぞって転向したのである。 その背後には、平和主義から軍国主義へと傾斜する世論の変化があった。 状況によっては私たちも又、いつ軍国主義者、国家主義者に豹変するかも知れない。 その恐れが充分あることを、今から肝に銘じておくべきだろう。(11/15のHP日記より)
| 揺籠の歌を、
カナリアが歌ふよ。 ねんねこ、ねんねこ、 ねんねこ、よ。 僕らは昭和の少国民だ。
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それが日中戦争で泥沼にはまり、国内に閉塞感が蔓延していたのが昭和16年だと思います。 真珠湾攻撃の成功はその閉塞感を打ち破るのに十分でした。 日本中がちょうちん行列で沸き返っています。 その後の破竹の進撃は国民に自信を与えたのではないでしょうか。(Ig)Igさんの世代はもう太平洋戦争を歴史として見ておられるわけですね。 表面的に見れば、おっしゃるとおりではないかと思います。 私は開戦時7歳の子供でした。 ですから、真珠湾攻撃の大本営発表に心躍らせ、「米英撃滅」 と子供心に信じていました。 しかし大人たちは必ずしもそんな単純な気持ちではなかったと思います。 とくに白秋のような文化人や有識者の中には、戦争に懐疑的、批判的な人も少なくなかったようです。 当時すでに大人だった方のご意見はいかがでしょうか?
この詩集を見ていきましたら、「アジヤの青雲」 は歌ったことがあって、歌詞にあわせて歌ってみると今でも歌えるので我ながら驚きました。 これだけ多くの詩があるのですから、幾つかはメロディーがつけられたのでしょうね。さすがYMさん、よく憶えておられますね。 それだけ歌としても普及していたということは、やはり当時の国策の一環として、人気の高い白秋に作詞の依頼があったのかもしれませんね。 この歌は覚えがありませんが、軍歌は今でもよく憶えています。 とにかく歌というのは、マインドコントロールのための有力な武器といえましょう。
「12月8日、戦意高揚して真っ赤に燃えたあの日の日本人のことを、絶対忘れてはならないと思う。 私は、12月8日が来るたびに、あの熱狂的な愛国小国民であった自分を思い出し、また、このような少国民に仕立て上げたものは何だったのかに、こだわりつづけてきました。 つまり、私にとって12月8日は、あの戦争を聖戦にイメージデザインした、国のうさんくささを考える日になりました。」 ボクラ少国民〜子どもから見た戦争〜また12月8日がやってきます。(N)
つちや作品で問題なのは、批判力のないこどもに向けて、「ほんとうにあったお話ですよ」 というスタイルで虚構以前の 「でたらめなはなし」 を書いていることです.よくわかります。 たしかに 「ぞう」 の話はすべて事実だと信じていました。 「でたらめ」 あるいは 「都合よく脚色されていた」 ことは今回、非常にショックでした。
ただし、二番目の問題として批判力のない小学校二年生に、こういう話を、しかも 「この話はうそですよ」 と指導する先生がいない状態で読ませてきた社会の在り方、その問題を問い掛けたいのです. こどもたちに、大切なことや文学の素晴らしさを伝えたいという姿勢を先生や大人、社会が果して持っていたのか、それが甚だ疑問なのです. こんな作品を 「児童文学の名作」 と考え戦争体験を継承する教材と位置付けてしまった社会というのは なにかとても異常だったのではないかと思えるのです.これも、よくわかります。 どうも 「安易」 に名作が選ばれているような気がします。 現実の戦争体験とは、そんなに 「単純」 なものではなかったろうと皆さんのお話をお伺いして思います。 私は幼児・児童に対する教育については、まったく無知なのですが小学生の読解力や感受性というのは、今、どうなのでしょうか。というか、私自身も読んだ当初から、この話題をいただいた今回まで「ぞうがかわいそうだったなぁ」 といった思い出しかなかったわけで・・・
しかし、それはやはり教師の力量の問題が大きいと思います。 「かわいそうなぞう」 だけでなくて、他の作品 (土家のや他の作者のもの、あるいは外国の戦争児童文学など) と比較させながら読ませるとか、中学に入ると、国語は総合学習の要素を最も取り込みやすい教科なので、いろいろと工夫されるのではと思います。
辺見庸氏ならば 「お前にえらそうなことを言える資格があると思うのか」 と言われるのではないでしょうか. 確かに私も自分が昭和10年頃生きていたら、いったい自分は何を書いていただろう・・と想像してしまいます. 多分、私もその時代の人間として、鬼畜米英とか威勢のいいことを書いていたんじゃないかなという気がします. 現在という 「安全地帯」 に身を置いて過去の人々の過ちに軽々しく石礫を投げつける批判態度は慎みたし、辺見庸氏もそのような観点で自らへの問いかけをおこなっているように思います.はい。まず、前回の 「反面教師」 という言い方は、やはり横暴だったかもしれません。 すみません。 何というか....それらの作品から 「われらの運命を汝らの警告にせよ」 という言葉を勝手に聞き取る姿勢を養いたいというカンジでしょうか。
ただ私の今の関心は、それらの作品や作者を称賛し賞揚してきた社会、全く批判力を持たずにその作品を受容してきた市民、そしてある時期価値観が変化すると、とたんに同じ作者と作品を罵倒しはじめる社会や市民という先にかかげた第二番目の批判の方に向いています.「かわいそうなぞう」 と つちやゆきお に対する一連の問題提起からはじまって、私自身いろいろ考えてきました. その結果今は、「こんな作品を名作と考えて受容してしまう社会の異常さ」 を、今私たちが生きて責任を負っている社会に対する問題提起として、私たち自身の課題として発言していくべきだと思っています.私たち自身の課題として、という点、激しく同意します。 私が太宰を好きなのは、彼があくまで 「私小説作家」 だったからです。 文学で何か大きなことを語れるなどと、つまりは啓蒙などと彼はハナから考えていなかったようです。 もちろん戦時中も。 しかし、彼の文学は、結果的に大きなことを語り得たのだろうと思います。
最後に一つ、教えてください。 加藤典洋が指摘した太宰治の 「パンドラの匣(はこ)」 での天皇陛下万歳!!では何を言いたいのか? それが一体中野重治とどのように関わるのか? さらに1945年の敗戦後、社会党結成大会前後に牧師の賀川豊彦が2回もの会合で 「天皇陛下万歳!!」 の音頭を取ったのを今回検索で偶然見つけたのですがこれは同じレベル すなわち戦争中に弾圧されていた両人ともに自由になって行った自発的行為 「天皇陛下万歳!!」 と判断できますがこれを加藤典洋が賞賛しているのか批判しているのか? こちらはご存知のようにジャカルタ在住で 「敗戦後論」 そのものを書店で立ち読みや、古本を注文配達などできない状況ですから、総て、加藤典洋に関わる論評・批評を読んで判断しております事をお断りしておきます。 なお、太宰治の 「パンドラの匣(はこ)」 だけは運良くウエブから無料で全編読む事ができました。上記の加藤典洋の主張について、私が読解できる範囲でお答えします。 まず加藤は 「たとえば敗戦直後、戦前は天皇信奉者でなかったにもかかわらず、美濃部、津田と同様世相に抗する形で 「天皇」 を擁護する言説を吐いた少数の文学者がいる」 と述べて、それは 「『新日本文学』 派の中野重治であり、また 「無頼派」 の太宰治である。」 と二人を並べて提示しています。 次に、江藤淳 『昭和の文人』 における 「政治と文学」 論争評価に言及し、これが、『近代文学』 派の批評家、荒正人と平野謙に対して劣勢だった中野重治の評価を逆転させたはじめての論評であると述べています。 しかし次に加藤は、中野に対する江藤の評価とは別の観点から、中野の優位性を論じたいと断っています。 江藤の評価とは、加藤によれば 「荒、平野に日本が占領されていることへの感覚が欠けているとして、それを一種のナショナリズムの問題に還元している」 ということです。 しかし、と加藤はつづけます。「わたしの観点からいえば、ここに荒、平野がもつべくしてもたないでいるのは、そういうものではない。「健全なナショナリズム」 ではなく、「ねじれ」 の感覚こそが、中野にはあり、荒、平野らの戦後文学的センスに唯一、欠けているものなのである。」 とし、さらに 「あの論争で、中野の主張を歪ませているのは、この占領のねじれ、憲法のねじれの痛覚が年少の論争相手に共有されないことへの、絶望的な苛立ちなのである。」 と述べています。
文学者への言及については長くなりますし、少し系統が違いますので、別のメールで解る範囲でですが、お返事したいと思います。
また太宰については、「一方、「無頼派」 の太宰に見られるのも、これと違うものではない。 彼もまた象を前に苛立つ群盲の位置に自分を置いている」 とし、『パンドラの匣』 の登場人物の、こんな台詞を紹介しています。 「日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。 便乗思想である。 真の自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばねばならぬ事がある」 「天皇陛下万歳!この叫びだ。 昨日までは古かった。 しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。」 さらに 『冬の花火』 『春の枯葉』 といった、その題名のなかに 「ねじれ」 を象徴させる戯曲の台詞を紹介し、「太宰は、美濃部、津田、中野と同じく、ここには何かねじれがあることを直覚する。」 と加藤は述べています。 そして 「ここに見られる 「天皇」 への言及は、いうまでもなくこの四人が天皇の信奉者に変わったことを語っているのではなく、いくさに負けた事実を起点に、自分の生きる空間のねじれに眼を注いでいることを表示している。」 ということです。 さらに 「中野も、太宰も、戦時下、時局に迎合するという姿勢から遠く、よく軍国主義の体制に抵抗し続けた。 しかし彼らは、戦後になると、いわばそこに迎えられて不思議ではない戦後文学というカテゴリーから排除される」 とのことです。 そして 「戦後文学派の大同団結的な雑誌 『序曲』(中略)−彼らを結びつけているのは、世界性と人間性、その要素としての国際性、市民性、社会性、主知性だが、それ以上に旧プロレタリア文学と無頼派の排除によって確定された、敗戦の 「ねじれ」 のない輪郭をもつというほうが、指摘としては、力がある」 とのことです。 そして「この 「戦後文学」 がほどけ、解体していく過程として、以後、戦後の文学は展開していく」 と結んでいます。
なんか、ほとんど本の丸写しになってしまいましたが、Yuさんのご質問に答えるとすると、私の解釈では、加藤典洋は 「天皇陛下万歳!」 と叫ぶことそのものを賞賛しているわけではないと思います。 ただ、あの時期に叫ぶことが重要で、つまり 「堕ちた偶像としての天皇に向けられた」 賛美であったことが、天皇自身を 「ねじれ」 の象徴とする可能性を帯びていたということです。 しかし、「この後、さまざまな資料により、天皇が 「ねじれ」 の苦渋の象徴であることをすら放棄した存在であることが明らかになる」 というふうに加藤は書いています。 そういった天皇自身の 「ねじれ」 の無さ、屈託の無さに彼ら四人が批判的であったことを加藤は称賛しているのだと思います。
夏の野に幻の破片きらめけり
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「何だと!」 と教官の声だけが満場にききとれた。「一度も予習に出なかつたくせにして、今朝だけ出るつもりか」 教官はじろじろ彼を眺めてゐたが、「裸になれ!」 と大喝した。 さう云はれて、相手はおづおづと釦を外しだした。 が、教官はいよいよ猛つて来た。 「裸になるとは、かうするのだ」 と、相手をぐんぐん運動場の正面に引張つて来ると、くるりと後向きにさせて、パツと相手の襯衣を剥ぎとつた。 すると青緑色の靄が立罩めた薄暗い光線の中に、瘡蓋だらけの醜い背中が露出された。「これが絶対安静を要した躯なのか」 と、教官は次の動作に移るため一寸間を置いた。 「不心得者!」 この声と同時にピシリと鉄拳が閃いた。 と、その時、校庭にあるサイレンが警戒警報の唸りを放ちだした。 その、もの哀しげな太い響は、この光景にさらに凄惨な趣を加へるやうであつた。 やがてサイレンが歇むと、教官は自分の演じた効果に大分満足したらしく、「今から、この男を憲兵隊へ起訴してやる」 と一同に宣言し、それから、はじめて出発を命じるのであつた。……一同が西練兵場へ差しかかると、雨がぽちぽち落ちだした。荒々しい歩調の音が堀に添つて進んだ。 その堀の向が西部二部隊であつたが、仄暗い緑の堤にいま躑躅の花が血のやうに咲乱れてゐるのが、ふと正三の眼に留まつた 「壊滅の序曲」1951年3月13日午後11時30分ころ、東京の西荻窪を発車した電車が一人の男を巻き込み50メートルほど引きずって止まった。 その男の身元はやがて原民喜だと分かった。 こうして彼は自らを 「原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落してきた人間」 と規定し、「夏の花」 「廃墟から」 「破滅の序曲」 三部作をはじめ、「原爆以後」 「美しき死の岸に」 などの小説や詩などを残して、46歳の若さでこの世を去った。 下宿には 「心願の国」 の原稿と、17通の遺書があった。 その中の1通は、一人の少女にあてたものだった。「とうとう僕は雲雀になって消えて行きます」 「私は歩み去らう 今こそ消え去って行きたいのだ 透明のなかに 永遠のなかに」 自殺の原因は核兵器が支配する世界への深い絶望からだと言われている。 彼は今、広島市中区東白島町・円光寺に静かに眠っている。
西練兵場寄りの空地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。 そして彼は馬車を降りて行つた。 嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集つた。 見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めてゐる。 死体は甥の文彦であつた。 上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れものがあり、そこから液体が流れてゐる。 真黒くなつた顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでゐた。 その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れたところに、若い女の死体が一つ、いづれも、ある姿勢のまま硬直してゐた。 次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去つた。 涙も乾きはてた遭遇であつた 「夏の花」
僕は今しきりに夢みる、真昼の麦畑から飛びたつて、青く焦げる大空に舞ひのぼる雲雀の姿を……。(あれは死んだお前だらうか。 それとも僕のイメージだらうか) 雲雀は高く高く一直線に全速力で無限に高く高く進んでゆく。 そして今はもう昇つてゆくのでも墜ちてゆくのでもない。 ただ生命の燃焼がパツと光を放ち、既に生物の限界を脱して、雲雀は一つの流星となつてゐるのだ。(あれは僕ではない。 だが、僕の心願の姿にちがひない。 一つの生涯がみごとに燃焼し、すべての刹那が美しく充実してゐたなら……。)「心願の国」
原爆小景〜コレガ人間ナノデス
コレガ人間ナノデス
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状況から説明いたします。 大本営直轄軍であったガダルカナル攻略部隊の第17軍(第2・第38師団) 約3万の将兵の内、敵兵火により倒れたもの約5千、餓死した者約1万5千、救出されたものが約1万人でした。 第17軍百武軍司令官が、新任になった上官の今村方面軍司令官に敗戦の責任を取って自決を申し出た時の今村軍司令官の言葉です。 今村は実行の時期について参考例を4つあげました。----以下引用:
3)ここに収容された1万人の、これからの先は私が引き受けます。 が、白骨となっても鉄帽をかぶり、銃を手にして密林内の塹壕を、守りつづけている2万の戦友の御遺族に、はっきり戦死の日と場所と、そのはたらきを知らせることは、必ずやらなければならない、あなたの責任です。 右の記録(注以下に記す 1)と2) がやっぱりそれに役立ちましょう。
1)ガ島で戦死した、特に餓死した1万数千の英霊のため、どうしてこんな悲惨なことになったかの顛末を詳しく記録し、後世の反省に役立たせるのでなければ、英霊は行くべきところに行かれません。 その記録を遺さない前の自決は、部下に対する義務を欠きます。
2)今度のガ島での敗戦は、戦によったのではなく、飢餓の自滅だったのであります。 この飢えはあなたが作ったものですか。 そうではありますまい。(中略) 全くわが軍部中央部の過誤によったものです。 これは、補給と関連なしに、戦略戦術だけを研究し教育していた、陸軍多年の弊風が累をなし、既に制空権を失いかけている時期に、祖国からこんなに離れた、敵地に近い小島に、3万からの第17軍をつぎこむ過失を、中央は犯したものです。 右のあなたの記録は、国軍戦術戦略の研究態度矯正にきっと役立ちます。
4)略。 引用終わり。
以上が戦争中1943年2月、餓島から救出された百武中将への自決を延ばして記録を書き留めておく責任とその理由を述べたエピソードを今村氏自身が戦後獄中で記されたものです。 1)と 3)は読み方によっては弔い方を示唆しているとも読めます。
以上が戦争中1943年2月、餓島から救出された百武中将への自決を延ばして記録を書き留めておく責任とその理由を述べたエピソードを今村氏自身が戦後獄中で記されたものです。 1)と 3)は読み方によっては弔い方を示唆しているとも読めます。英霊と言う呼び名について、目下当MLで話題が盛り上がっていますが、今村均が以上を語ったのが戦時中の1943年であり方面軍司令官としての立場もあっての事でしょう。 僕自身は、英霊という言葉は使わないようにしています。 戦場で食べるものもなく、保給を受けられずに亡くなられた方々が戦闘による死者以上に多いのに、その実相に立ち入らず 『英霊』 とくくられて靖国にまつられるのは 軍の作戦・補給のまずさを指摘・反省しないという立場に通じるもので 餓死した方々から異議が出てくるかもしれません。 また戦闘で亡くなった方々についても、英霊=霊魂の不滅を信じる事は宗教に通じるもので、無神論者からは否定されるのではないでしょうか? だから現在も国家的な慰霊儀式において、「戦没者」 と書いて英霊とは書かないのだと思います。
はい、非常に感銘を受けました。 確かにこれが 「弔い方」 の基本であるし、それ以上のものはないと、私もまったく同意します (ただ 「英霊」 という言葉には、靖国の垢がつ いていますため、ひっかかるのですが)。 今村氏は本当にすばらしい人だったのですね。 こういった思考を持ちえる人が、日本の兵隊さんの中に何人もいただろうことは、語り継いでいかねばならないでしょう。
はい、大いに同感します。 ただ、大岡昇平の言葉 「二十世紀には悲劇はないんだ。事故だけしかない」 というのは鎮魂の際に忘れてはいけないだろうと思いました。 戦場には心理なんか無くて、あるのは事実だけだということだということです。「戦場心理が無い」 と書きたかったのだとすると恐怖心はなく、ただ事実だけしかない、本自体のミスタイプで無いとすると ちょっとわからなくなります。Yu
多分ですが、心理→真理なんかなくてと書いたのですよね。 真理はなくて事実だけがある、 公式も定理も真理もないですね。 同感です。
これが本を確認してみますと、やはり 「心理」 でした。
これが本を確認してみますと、やはり 「心理」 でした。返事が遅くなりまして、すみません。この前後の対談の様子をそのまま書き写します。
「戦場心理が無い」 と書きたかったのだとすると恐怖心はなく、ただ事実だけしかない、本自体のミスタイプで無いとすると ちょっとわからなくなります。
この前後の対談の様子をそのまま書き写します。これでだんだん判ってまいりました。
大岡 ; そこまでまだいってないんでして、『レイテ戦記』 の主人公は兵隊達ですから、悲劇とまでは至らないでしょう。 現地の司令官たちも、大本営の命令でレイテ戦は続行しなければならないという要請があるので、自分の意志との葛藤は深刻ではないのですよ。 悲劇は、また別にやらなければならないと思っているんですよ。 つまり兵隊の立場からは、いま言ったように、参謀の作戦、現地司令官の決断によって決せられるということ、つまり司令官の決断は兵隊には機能的に作用してくるわけですね。戦争を従軍・銃後どちらにせよ体験していない僕には悲劇に至っていない〜と大岡が言い切れるのは凄い事と思います。 戦争そのものが死者の連続であり その一人一人が悲劇の主人公に思えてなりません。 別にこれは僕の大岡への批判ではなく端的な感想です。 うちの息子がまだ小さい時に映画(別に戦争映画に限らず) を見てだれが主人公か〜とよく聞かれたのですが、人生ではみんな全員、一人一人が主人公だといつも言い聞かせておりました、それは戦争のような生死の凝縮した場面で一層鮮明になるのだと思います。
そういう形でしか兵隊に干渉してこない。(中略) 『レイテ戦記』 が劇だと言った意味は、司令官の側にはそういう大本営との争いのほかに、アメリカの作戦との間の葛藤があるでしょう。(後略)これはどんな戦場にも対戦している現場と、その上の指揮系統との葛藤はあると思います。 有名なのはロシア軍から二〇三高地が取れない乃木将軍と大本営の葛藤とか。
古屋 ; そうすると、シャーマン戦車が出てくるところに井畑一等兵の証言が出てきますが、ああいうふうに直接証言でチェックできるところは.....。 あの場合、劇的な効果はよく出ていると思うんです。このレイテ戦記のすぐれている一つに読者へのサービスで下巻に索引がついています。 人名・地名・艦船名を含んだ部隊名まで網羅された各索引は膨大で約70頁にもなります。 ちなみにこの井畑敏一は上巻126・128・129頁とあるので、さっとそこを読めるのです。 索引は恐らく遺族のために考慮した理由の一つのかもしれません。 で、そこを読むと、レイテ戦記には珍しく井畑の心理描写も描かれていて、「小屋の床にアンペラにくるまって横になった。 いっそ一人で逃げ出して、山へ入っちゃおうか、どうしようかと迷いながら、眠りに就いた。」 この人の名誉の為に申し添えると、「彼は飛行場作業隊員で銃も手榴弾も支給されていなかった」〜ので仕方が無い事なのでしょう。 井畑一等兵について、「悲劇でない」 と大岡が言い切るのは、どうやら井畑が 「唖」(本文ママ) になりながらも生還できたからで大岡から取材をうけたらしい、(それでなければ心理描写ができない) からではと思います。 これもまた僕の勝手な解釈で間違っているかも知れませんが。
大岡 ; 何が劇かということに関係してくるでしょうが、悲劇ではないですよね。 アメリカはいわゆる物量で、物理的な作戦計画でくる。 日本軍のほうは情念しかないということ、そのぶつかり合いが、劇なのか何なのか、僕にはよくわからないんですが。
古屋 ; 大岡さんが前から言っていらっしゃる 「二十世紀に悲劇はないんだ、事故だけしかない」 ということにはぴったりだということなのです。なるほどこの前後関係でよくわかりました。 事実だけを端的に連続して並べていく、その積み重ね作業が 「レイテ戦記」 だったのですね。
大岡 ; そういうことになるかなぁ。 とにかく心理描写とか、絵画的な描写はほとんどないんでして、『俘虜記』 の中でちょっと書いたんですが、戦場には心理なんかなくて、あるのは事実だけだということでしょうか。
ただ、そうやって事実を書いていって、リモン峠の段階で、一つのピークに達するという予感があったんです。 雑誌連載を終わった段階で、どこかで感想を書いたんですが、「事実に歌わせる」 ということを言ったんです。 そういうまあ願いがあったんですよ。 事実だけを書いて、それで何か感じてもらえるんじゃないかと むろん、これは普通の文学理論じゃ通用しない背理なんですけれども、僕自身の情念から出た、一方的な願望なんですけども、書いているときの気持ちはそんなものだったのです。〜引用終わり〜同意いたします。
前回、私はかなり解釈違いをしていたようです。 失礼いたしました。 大岡の気持ちとしては、圧倒的な事実を語るから、それでとにかく察してくれということだったようです。 言うならば、事実を語る以上の、文学はない、という気持ちだったのではないでしょうか。
しかし、実を申しまして私自身は 「戦争そのもの」 への興味には未だ触手が動いていないため、かなり難しいなぁという気分になりました。 そういえば、これまで戦記と呼ばれるものを まったく読んでおりませんでした。 ウ-ン「レイテ戦記」 は以前書きましたが3部冊で全部で約1500頁近い大部です。 最初に読む戦記としては、薦められません。(不眠症にはよく効くと思いますが・・・) むしろ本人が従軍した戦記は主観的な部分が多く入りますが平易で理解しやすいでしょう。 同じ場所を扱った戦記でも、位階が異なったり部隊が異なったりすると微妙に違ってきます。 そうやって何度も読んでいくと理解が深まって行くと思います。 これは時間がないとできません。
最も類似している箇所は次の文です。
小説「8月の果て」
補充兵はどうも程度が悪い、昇級を望むでねやあし、ただ一日も早く終わって帰りてやあ一心だ。だいたい格好からしてなってねやから、ひと目で現役兵と見分けられる。いくら注意をしても、いつの間にか戦闘帽の上から真っ黒な手拭で頬被りしとるし、戦闘帽で飯盒の熱い蓋をつかむので、いつも煤で真っ黒だがね。HP「軍隊まんだら」
私ら補充兵はどうも程度が悪い。昇級を望むでなし、ただ一日でも速く戦争が終わって帰りたい一心だ。大体格好からしてなっていない。戦闘帽の上に手拭いで頬被りをする。いくら叱られてもいつの間にかまた真黒になった手拭いを被る。戦闘帽は飯盒の熱い蓋を掴むので煤で真黒だ。軍衣も泥と垢で真黒だ。すっきりしている現役兵とは丸で違う。
最も類似している箇所は次の文です。確認しました。
これは引用とか剽窃といったなまやさしいものではなく、全体的な文脈から発せられた文章をコンテクストから切り離してまったく異なる意味を与える−つまりは捏造といえるくらい悪質な、行為であると言わざるをえません.文章を愛し、ものを書く人間としてはあるまじき行為であると思えるのです.
今日25日に作家の柳美里さん、朝日新聞の広報部長代理、学芸部長代理、担当記者がお出でになって「済みませんでした」と挨拶がありました。26日夕刊、地方は27日の小説「八月の果て」の末尾に、「軍隊まんだら」を参考とし、一部利用させていただきました。この点については、佐藤さんのご了解を得ました。と書くことで妥協しました。
小説を書いて貰うのに新聞社では作家の欲しい資料を探して提供しているようです。柳さんは提供を受けた資料を読んで自分なりに書くときに、原文の「軍隊まんだら」と殆ど同じに書いてしまった部分が有ったと謝罪されました。私としましては、下級兵士の実態を新聞小説で広く皆さんに読んで貰って、それなりに良かったとも考えています。実害も無かったし、これでケリをつけることにしました。弱腰で申し訳有りませんが、81歳の年寄りです。宜しくご了解をお願い致します。ご指導有り難うご座いました。
私としましては、下級兵士の実態を新聞小説で広く皆さんに読んで貰って、それなりに良かったとも考えています。この小説は、韓国・朝鮮人や下級兵士の立場から、あの戦争を描いているもので、リアルさを出さんがための、お粗末な勇み足がありましたが、全体としてSさんなど下積みの兵士のご苦労も、広く語り継ぐ役割を果たしていると思います。Sさんのご判断に敬意を表します。
<昭和7年>
総選挙には、片山哲氏のために二日にわたって応援演説をしたが、惜しいところで破れてしまった。無産階級の階級意識の成長など、はなはだ心細いものだと思った。選挙が現在のような制度で行われる限り、無産党など、日本で発達する見込みなど、ないのではあるまいかと思った。
日本の現在において、言論の自由がなくなっているのは、いちばん嘆かわしいことだと思う。十年前、二十年前には、まだかんかんがくがくの議論がきかれた。今は、新聞などでも、みんな顧みて他をいってる感じしかない。これは暴力に対する恐怖だと思うが、身を賭しても論陣を進める人が、五、六人はいてもいいと思う。
<昭和8年>
産党巨頭の転向、河上博士隠退声明などで、為政当局が、ほくそ笑んで能事終れりとしていたならば、はなはだ危険である。街に満つ生活難と失業苦とは、ここ二、三年来少しも緩和されていないし、これを救おうとする社会政策が何ひとつ計画されているのをきかない。
政党の腐敗堕落を攻撃しながら、いざ選拳となると、やはり既成政党が過半数を占めるのであるから、気短な人たちが、直接行動以外革新の道なしと考えるのももっともである。国民大衆が、もっと政治的に目覚め、その政治的批判が、峻厳を極めなければだめである。五・一五事件などが起るのは、政治家の堕落と共に、こうした連中を漫然と支持していた国民大衆も、その責任の幾分を負うべきである。
<昭和9年>
この数年来、新聞雑誌の言論が微温的で、あらゆる人が、ほんとうにいいたいことをいい得ないで、顧みて他をいう人が多いのは、情ないことである。しかし、大新聞や大雑誌になると、一度弾圧を受けると被害が大きく、影響するところが大きいので、結局金持ち喧嘩せず、お座なりしか書かなくなっているからで、多くのインテリ読者は、みんな不満を感じているだろう。国家に諌争の臣なくんば国家危うしという言葉もあるが、あらゆることに対して、もう少し堂々たる反対論や異説があっていいと思
う。五年前の日本は、そうだった。
<昭和10年>
我々は、十年前までは、米国恐怖症にとらわれて、何となく不愉快であったが、この頃は米国などを何とも思っていないような気勢が漲(みなぎ)っているのは、心丈夫である。国民の意気が上がっているというのであろうか。他のことはさておき、それだけは愉快である。
伊エ戦争などを見るにつけ、国際間のことはなお、武力によるほかはないということを、誰でも痛感するだろう。国際間の協調平和などは、まだまだ未来の夢に過ぎない。堅実剛健な民族となって繁栄していくということがいちばん大事なことかも知れない。
<昭和11年>
著作権審査会委員の手当として、年末に、内閣から金百円貰った。お上から金を貰ったのはこれが初めてである。嬉しいようなくすぐったいような気がした。
二月二十六日の事件は、大震災と同じくらいのショックを受けた。実害は、大震災の時の方がずっと大きかったが、しかし今度の方が人変であるだけに、不安が永続きするわけである。こういう事件の結果、言論文章などがいよいよ自由を束縛されやしないかという不安が、いちばん嫌だった。
<昭和12年>
ひいき目で見るわけでもないが、近衛内閣の政治は、従来の内閣に比し、大衆的であり、文化的であり、合理的である。教養から来る頭のよさが、いろいろな点に現れている。予算編成などでは、従来の内閣と大差ないとしても、日常の生活が明朗であるだけでも、国民としては有難いことである。北支事変突発に際しても、我々雑誌関係者にまで懇談するあたりは、従来の内閣などに比して、はなはだ進歩的であると思う。
出動する兵士を送り出すごとに、我々兵役の義務なき者は、誠に申し訳ない気がするのである。戦場の労苦は、並大低ではないだろうと思う。と同時に、華やかな戦勝の報に接するごとに、心を痛ましむるものは、戦死傷者の氏名である。国家としての存在、発展のためのやむにやまれない犠牲とはいえ、哀悼の念に堪えないのである。
<昭和13年>
戦争が、いつ終るかということを問題にしている人が多い。戦争が終るということは、貴い人命が失われることが終ることだから、もちろん大切な問題であるが、しかし戦争が終ったところで、北支、中支の新政権を確立するという大事業が残っている以上、戦争同様の覚悟が必要である。五年、十年、あるいはそれ以上、我々は、現在
の覚悟を続けなければならぬと思う。
精神総動員の建前上、国民の気風を一新するために、あらゆる方面に積極的に鼓舞奨励が行われるべきであろう。消極的な取締まりや弾圧は、下衆だと思う。
<昭和14年>
駆逐艦の上で、講演した。「武士道について」というので、一度ラジオでやったことのある講演だ。折から、千メートルくらい上流に仮泊している駆逐艦は、さかんに江岸の敵を射撃していた。(もっとも僕は講演に夢中になっていたので、砲声は耳に入らなかったが)。東宝映画の金丸氏の話では、「士官たちの中には、三十年来の感激だといっていた人もある」とのことで、出来もよかったらしい。僕としては一世一代の講演かも知れぬ。
海軍の好遇は、一生忘れられないくらいであった。海軍軍人の人間としての立派さに、一番感心した。わずか九日の在艦であったが、退艦するときは、惜別の情に堪えないものがあった。
<昭和15年>
戦争中における国論の一致ということは、最も必要なことであろう。その国の国策が完全無欠であるかどうかは、結局時のふるいにかけてみるほかにはないのであるが、その国策が、最善策でなく、第三策もしくは第四策であろうとも、その国民が一致団結することが国力を発揮するゆえんであろう。第一策と第二策とに、国論が分かれて争うよりも、第三策でも第四策でもいい、いくらどんな下策でもいいから、それを遂行することに、一致団結することが必要である。
世界は、まさに戦国時代だ。国家としての実力のみが、ものをいう時代である。完全なる国防国家のみが、この戦国時代を生き伸びるであろう。政権の争奪などが行われ、内閣が代るたびに、国防方針が転変するような国家は没落していくほかはないだろう。
<昭和16年>
今度陸軍当局から、「戦陣訓」なるものが発表された。軍人たるものの根本精神から始まって、日常身辺の注意に至るまで、大に亙(わた)り微に入り、こういう性質のものとしては、完璧に近く、今次事変の副産物として後世に残るであろう。これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。
僕も、松岡外相のラジオの演説に感心した一人である。本当に自分の考えていることを、自分の言葉でいい、それに実感が裏付けられているような演説をする大臣はごく希だからである。先月号に書いた第二回文芸銃後運動は、情報局、翼賛会の後援を得て、いよいよ五月からやることになった。今度の方が、一流の都市でないだけ、交通その他の点において、骨が折れると思うが、全力を尽してやるつもりである。
ヒットラー総統が、ドイツの現在の活躍は、ドイツ民族の千年の運命を決定するといった。歴史上、一国のある時代の行動が、千年の運命を決定した場合は、指摘することができる。日本などでも、徳川幕府の鎖国令は、日本の三百年の運命を決定してしまったのである。それと同様に、現在における日本の行動は、将来数百年間のわが民族の運命を決定することは確かであろう。
<昭和17年>
国民皆兵である以上、小学校の三、四年生になれば、昔の武士の子が、十一、二歳で切腹の作法を教えられたように、国のために死する覚悟と作法とを教えるべきであったと思う。われわれ明治大正に育った人間は、学校教育において、あまりに生命を大切にすることのみを教えられすぎていたと思う。
自分は、少年時代日本海海戦を聞いたことを、一生を通じての愉快な思い出と考えていたが、最近それにも、劣らない快報であるハワイ、マレーの捷報を聴き、今またシンガポール陥落の快報に接せんとしている。よくも帝国隆興の盛時に生れ合わせたものだという感懐を禁じ得ない。シンガポールが陥落した以上、もはや軍事的には、日本は不敗の態勢を確立したといってよく、国民はいよいよ必勝の信念を堅くすると共に、米英の首脳者たちは、その戦意をはなはだしく挫折せしめられたに違いあるまい。
軍人は生命を捨てて国のために戦っているのである。われわれ銃後の人間は生命を捨てる機会は容易にないのであるから、他のあらゆる物を、国家のために捧げる覚悟をして戦うべきである。
<昭和18年>
山本元帥の戦死とアッツ島の全軍玉砕とはわれわれ日本国民に戦争に対する所存の臍を固めさせた。われわれはふかく、哀悼するが、しかしこのために、神経質になっては申しわけがない。逞しい感情と勁靱なる神経とをもって、一路戦争遂行に邁進することが、英霊に報いるゆえんの道である。親の屍を踏み越えよう、子の屍をふみこえよう、不撓不屈撃ちてし止まんのみだ。
大空の決戦へ参加せんとする青年の気魄は実にすさまじい。文壇人の中で久保田万太郎、浜本浩の息子たちが、敢然として志願したことはうれしいことでもある。先日、汽車の中で、昔の友人である銀行家の岡野清豪に会ったら、土浦へ入隊するという長男を連れていた。青年にこの気魄あり、飛行機の生産さえ順調ならば、どんな事態が突発しても恐るることはないと思った。
<昭和19年>
戦局はいよいよ悽愴苛烈になった。が、これくらいは覚悟の前である。否、この五倍十倍くらいは覚悟の前である。いな、この五十倍百倍になろうとも、われわれは度胸を据えて奮闘しなければならぬ。真の戦いはこれからだ。日本国民たるものは、お互いを信じ合おうではないか。二千六百余年の伝統を持つ日本民族が、あらゆる苦闘の中をくぐりぬけて、不死鳥のごとく中天高く羽ばたく日が、近く来るべきことを自分は信じている。
神風特別攻撃隊のことは、筆舌に絶した神聖事だ。前に、真珠湾、シドニー湾の特別攻撃隊あり、今また神風特別攻撃隊あり、しかもその志願者が続出するということを聞いて、われわれの必勝の信念は強化された。これこそ日本人独特の攻撃方法であり、科学の絶対に到達し得ない方策である。敵米英は、その報に接して驚倒していることだろう。神風特別攻撃隊のある隊長が、夜中目標がないために一且引き返し、翌暁再び出発せられたという一事に至っては、人間の精神力の極致に達している。
<昭和20年>
国民はよく戦ったと思う。多少の不心得者があったとしても、多くの国民はよく戦ったと思う。負けた後で、責任を国民にも転嫁しようなどとは、無理を通り越して非道である。ただ、軍部の専横を防止すベき位置にあった議会とか言論機関とかの責任も軽いとはいえない。しかし、過去十数年にわたって、テロと弾庄とで、徐々に言論の力を奪われたのでは、一歩一歩無力になるほかはなかったのである。僕のような人間さえ、暗殺の目標にされて、私邸を十数人の警官によって護衛されたことがある。しかも、こんな時に暗殺された方が非国民のような感じになり、相手が憂国の志士になるのである。実際、彼らの公判の結果を見ると、多くは執行猶予であり、半年か一年
後には、そのために右翼勢力として、天下に闊歩しているのである。
過去に日本を訪れた米国人中、最も日本人を認め、日本の事物を賛美してくれたのは、生物学者のモースであろう。彼の「日本その日その日」は至る所で日本人の正直、謙譲、温雅、誠実を賞賛してくれている。爾来数十年、日本人もたしかに悪化している。が、今でも、どこかにモースに認められた日本人のよさが残っているに違いない。戦争をしたのは、たしかに悪い。しかし、それは真に一部の人によって企てられたことが、今にアメリカ人にも分かるに違いない。私は、進駐軍の中に、第二、第三のモースが現れるよう望んでやまない。(参考サイト)「戦争を語り継ごうリンク集全般」の中の「話の屑箱・菊池寛」
国民皆兵である以上、小学校の三、四年生になれば、昔の武士の子が、十一、二歳で切腹の作法を教えられたように、国のために死する覚悟と作法とを教えるべきであったと思う。われわれ明治大正に育った人間は、学校教育において、あまりに生命を大切にすることのみを教えられすぎていたと思う。昭和17年には、私はまさに小学校3年生でした。「国のために死する覚悟と作法」を教え込まれる毎日でした。武士道とか、英霊とかが議論になっていますが、孫や曾孫のために、ああいう時代が2度と来ないよう願っています。N
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昔の軍隊はいやなところだったという話をすると
すかさず、嘘だ嘘だと若々しい男の声が跳ね反ってくる。 あんたがた元日本軍兵士は 新兵の頃はそうだったかもしれんが 三年兵、四年兵ともなれば 夜毎夜毎、下級の者に陰湿なリンチを加える喜びに 五体を震わせていたというじゃないか俺たちもたった一度でいいから 堪能するまで人を苛める楽しみを味わってみたい うわ、おう、うわおう、うわ、うららら! 命令で異国の戦場へ引っぱり出されるのは
戦争で無益な殺生をしたくなかったという話をすると
占領地の非戦闘員は大事にしたという話をすると
戦争だけはやってはならない
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イラク侵略中の米軍隊内で女性兵士に対する性的犯罪が頻発したため調査チームを編成したとか(衛星TVのニュース)。その中には、隊内レイプ事件も一件報告されているそうです。戦場での兵士による強姦殺人は船山馨さんの絶筆「茜色の坂」にも出て来ますし、アフガン戦争でソ連兵が同じ振舞いに及んだシーンが週刊誌(ポスト or文春)に連載されました。
平時でもあります。知人のお嬢さんが海自の隊内で性的虐めに遭って精神を病み、退職、泣き寝入りして長期入院しました。もう三年以上になりますが、完治していないのではないかな。人類(特に男)のDNAは実におぞましい。閉鎖環境下の極限状態では(ほんの一部かも知れないが)ケダモノ並みの振舞いに及ぶ輩が、何処の国にでも、必ず居るらしい。
初年兵虐めもそうです。幼児虐待を体験した成人の多くが、DVの常習者になる。……こういう習性も、遺伝子にプログラミングされていて、環境次第で発症するのでしょう。 虐め、リンチ、強姦、虐殺 etc. 戦場に身を置いたら、もう何もかもお終いです……他人を戦場に行かせるのは別かも知れませんけど。 詩の中の「若々しい男」の代わりに、政治家はじめ、いろんなお人の名前を入れて味わってみるのも、また一興です。HU
それにしても、不思議です。 若くして病死するような人は、それだけで非国民扱いされそうですけど。 手元に「雨ニモマケズ」の詩はありませんが、あれは心も体も弱い自分を吐露している詩だと思います。 個人的には、自分は偽善者じゃないかと、悩んでいるようにとれるのです。 ご存知の方も多いと思いますが、そもそもあの詩は、賢治の死後、手帳になぐり書きしたものが発見されました。 タイトルもついてなかった。 最初のフレーズがタイトルになった。 内容とタイトルが合わないと思いますが、作者以外がタイトルをつけるのは難しいので、しかたないのでしょう。
作品が作者の意図から離れて用いられるのはよくあることで、作者も、「こう解釈して欲しい」とは、あまり言わないのではないでしょうか。 山田監督も、黄色いハンカチの使い方に、特許をとっているわけでもないでしょうから、苦しいところでしょうね。MS
P527「賢治の愛の告白」には、“「雨ニモマケズ」が、戦時下、銃後の鼓舞のために盛んにラジオで喧伝された”という話が紹介されていました。どなたか、聞いたことありますか?当時子供でもありましたから、そういう放送は覚えがありません。しかし戦時中「雨ニモマケズ」が「滅私奉公」や「欲しがりません 勝つまでは」などのスローガンと結び付けられて、広められたというのは想像に難くはありません。太平洋戦争開戦後、大政翼賛会文化部は早速翌春には,朗読詩集『常盤樹』に「雨ニモマケズ」を掲載して,「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」お国のために戦い抜きましょうと,国民の志気を鼓舞したそうです。
宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならなければ、」と農民芸術論だったかにちゃんと書き付けていますよ。すべて功利主義の世界では本当の救いの言葉です。賢治が直接書いた言葉だったんですね。童話のことではなくて。でも、ごめんなさい。純粋すぎて悲しいです。だって、決して実現しそうにないですから。できる範囲で努力するしかないです。このMLも、今回いただいたレスもその一つですね。
Nさま
「雨ニモマケズ」入門 http://www.kcg.ac.jp/acm/a7050.html#2 は難しいですが、興味深い内容ですね。ここにも書いてある通り、法華経のことを知らなければ。後でゆっくり読み直します。
このサイトでは、
「一日ニ玄米四合」を「一日ニ玄米三合」と書き換える(昭和22年発行の文部省編『中等国語−@』)
MOさまのレスでは、
「一日4合の米」を2合に改変されて軍部の宣伝に 使われたようです。となっています。4合→3合→2合と、だんだんと厳しくなっていったんでしょうか。おそらく機械類のなかった昔は、4合でも農作業する人たちには少なかったんでしょうね。
それから、『宮沢賢治を創った男たち』 米村みゆき著 http://homepage3.nifty.com/~yonemura/kenji-j.htm この本は、賢治の詳しいことや、あの時代のことが分かるかもしれませんね。今回、安直な内容を投稿してしまって、恥ずかしい気もしますが、勉強になりました。MS
賢治を代表するのは、「農民芸術概論」や羅須地人協会の活動、「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリ」「春と修羅」などであって、それらがとくに羅須地人協会の挫折からのいろんな迷いが産み落とした「駄作」が「雨にもまけず」だと思います。
以前の、1920年代の賢治であれば「日照りの時は」「涙を流し」たりせず、日照りにたちむかっていました。「寒さの夏は」「おろおろ歩」いたりせず、冷害にどう対処するか、農民たちとともに苦しみ、論議していたのがほんとうの賢治です。
だれでもスランプの時期はあります。そういう、死の直前の最後の時期に自分だけのメモで書いていた日記を、自分の代表作のように書かれては、賢治さんがかわいそうです。現実の宮沢賢治さんは、けっして「北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと」言ったりはしませんでした。賢治さんの「銀河鉄道の夜」をヒントにして、生と死をテーマにした、あの松本零士さんの傑作マンガ「銀河鉄道999」が書かれました(たぶんそうじゃないかな? ちがいますか?)。メーテルもてつろうも、「雨にもまけず」には賛同しないと思います。 (参考文献:中村稔『定本・宮沢賢治』芳賀選書@、芳賀書店、1966年)Na
Nさまが紹介してくださった『宮沢賢治を創った男たち』 米村みゆき著 http://homepage3.nifty.com/~yonemura/kenji-j.htm (No.5103)のサイトにもあるように、賢治は死後、高村光太郎や草野心平などの文化人によって聖人化(サイトでは「神話化」)されたことは、私も賢治ファンから教えてもらっ たことがあります。 『宮沢賢治を創った男たち』を読んでみたいなと思ったり、後で読まなきゃよかったと後悔するかなと思ったり。普通、聖人は芸術を産み出さないので、気になっていたんです。MS
「ひでりのときは なみだを ながし さむさの なつは おろおろあるき」の部分は、異常現象のときの事でしょう。今年必ず異常気象が起きるとわかっていれば、対策のとりようがありますが、農業というものは、そう簡単ではありません。全てをやりつくしても、涙を流さなくてはいけないときがある。むしろ、日照りや冷夏に泣くというのは、農業に全力で従事しているから、泣けるわけです。どんなときも農民と苦楽を共にするという決意が、この文章だと思います。農業に関係のない人は、泣かないわけですから。
「北に けんかや そしょうがあれば つまらないから やめろといい」の部分は、賢治には、具体的に仲裁したかった、誰かの喧嘩や訴訟の話が頭の中にあったのかもしれません。それは、農民と地主の訴訟や、農民と国との訴訟ではなく、どっちが悪いのか判断できないような、農民と農民との間の喧嘩や訴訟だったかもしれません。賢治の性格からして「農民の立場で権力とたたかうことをやめる」という意味はありえない、と僕は思っています。団結するべき農民が、くらだない理由で喧嘩をしていたなら、めんどうな仲裁の仕事をしたい、と思ったのではないでしょうか。喧嘩の仲裁というのは、楽な仕事ではありません。だれも引き受けたがらない嫌な役割です。それを引き受けたいという覚悟に、僕には見えます。そしてこれは、紛争を話し合いで平和的に解決するという、国連や憲法の精神に通じるものだと、僕は思っています。To
「宮澤賢治はその生立ち、性格から、その身につけた風格から僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人であるが、彼の思想、言葉をかへて言へば彼の全作品の底に流れてゐる一貫したもの、それが又僕の心を強く打たないではおかないのだ。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」といふ句に集約表現される彼の理想、正しく、清く、健やかなもの人間の人間としての美しさへの愛・・・」
「きけわだつみの声」に収められている戦没学徒の日記で、賢治作品「烏の北斗七星」に寄せて入団の前日に書かれたものです.これを書いた佐々木八郎氏は東大経済学部の学生で、もし生きていたらば大内兵衛と並んで戦後を代表するマルクス経済学者となっていただろうと言われたほどの俊英でしたが昭和20年4月14日に沖縄特攻に散華されています.YM
今年になって、部分的に、読みました。もちろん、登場人物の、当時の同年齢の俊介や耕平、年上の高畠や篠原は魅力的でしたが、まだ30年前には、まだ、現実なリアリテイがありませんでした。自分にとっては、どうしても過去のことだったんですね。
ところが今、30年経って読み返すと、今の情勢にかかわって、由紀子や柘植大尉や邦や、伍代兄弟も、白も、なんと、生き生きと、その生き方を、感覚できるではありませんか。ビックリしました。「戦争時代をどう生きるか」、まだ読んでない方、ぜひお読み下さい。
五味川さん原作の映画「人間の条件」のDVD、2万円で出ています。「戦争と人間」のビデオも発売されています。
五味川純平氏は、以前、会員の「NH」さんも話題にされていた「戦争と人間」の著者で、この「人間の条件」は、作者自ら満州戦線に従軍した半自伝的名作で、1,300万部を記録した空前のベストセラーと言われています。今は6冊中の2冊目(第2部)まで一気に読み終えたのですが、戦時下における非情な世界がリアルに表現され、反戦メッセージが強く心をえぐります。
そこで、さらに驚いたのは、第2部の最後の広告欄に、なんとこのML会員のTIさんの「淀川」が紹介されていたことです。TIさんは私がやっと生まれた頃から既にメジャーデビューされていたのですね。TI氏の名前を、こんな昔の著名な本から見つけ出すことができ、驚きとともに感激しました。また全部読み終えたら感想を書きます。
そこで、さらに驚いたのは、第2部の最後の広告欄に、なんとこのML会員のTIさんの「淀川」が紹介されていたことです。
TIさんの詩「淀川」の感想が書かれているHPがありましたので、ご紹介します。
「一行の淀川に、物書き達の夢を見る」
TIさんの作品の一覧です。
第1幕は タナカの実家で、休暇でタナカが 貧しい村の人達のために魚の干物などを土産に帰宅すると 思いのほかの歓迎をうけます。その中に妹がいないのに気づいて 尋ねると 父が 「近所の裕福な家で女中をしている」と答えます。タナカの軍服を近所の人が誉めると タナカは「これは 陛下のものだ。軍隊での食事など一切は 陛下のおかげだ」と天皇への感謝を述べます。
第2幕では 射撃で最高の成績を上げたタナカが 特別休暇で優秀な成績をあげた他の5人と妓楼に行き 宴会のあと 女をあてがわれます。他の5人がさった後 タナカの前に現われたのは妹でした。しばらくそのままでいるところに上官が現われ、妹をだこうとし、タナカは 妹と上官を殺します。
第3幕は 軍法会議で(弁護役の士官もいて、タナカが優秀な兵士だったと弁護します)タナカは無言でしたが、裁判長が 殺された女の身元を調べようとしたとき 彼女が妹であった と語ります。死刑を言い渡した後 裁判長は「天皇に恩赦を願えば 死刑を免れるかもしれない」と付け加えます。それに対し タナカは「赦しを請わなければならないのは天皇だ」と拒否し 暗転した舞台のそとで、処刑の銃声が聞こえるなかで 御真影が映し出されて 幕が下ります。
カイザーは 反ナチでしたから、ナチス・ドイツの友好国で 40年には 日独伊3国同盟を結ぶ 日本にも批判的だったでしょうが、この戯曲は それを超えて 貧困と無知・無批判が 権威主義的体制を生み 権威主義的体制が 貧困と無知・無批判をうむ 世界各所で見られる現象を鋭く批判したものです。タナカは「天皇が兵士達の前で 自分は兵士達の家族が これだけ苦しんでいるのを知らなかった。今まで タナカのようにそのことを訴えるものは誰もいなかったから。どうか自分を赦してくれ。赦してもらえなければ、自分は天皇にとどまれない と赦しを請えば 天皇を赦す」と述べますが、この考えは 憲法第1条の(天皇の地位は)主権の存する 日本国民の総意に基づく というのと通じるところがあるような気がします。 その意味では 憲法に基づいて即位する と述べた 現天皇は タナカの望んだ(赦せる)天皇かも知れません。
カイザーは この戯曲を「完成された ヴォイツェック(ベルグのオペラ ヴォツェックの原作・未完)、いや それ以上の作品」と自負したそうですが、娼妓にされた妹をみて、タナカが自分の生きている世界の真実の姿を認識し、その後 強く高貴に生きる姿が 描かれて、ギリシャ悲劇以来の正当な悲劇の伝統を踏まえる一方 タナカの精神の軌跡を表現するために多くの登場人物を小道具のように使う など「朝から夜中まで」を思わせる 表現主義演劇の手法も生かされた傑作のようです(読んでいないので責任はもてませんが)。 70年頃に白水社 から 岩淵達治氏の訳が出ているそうですが、現在は手に入らないようです。日本では上演されていないとのことです。AA
子供たちは、もう二度と手に入らない大事な弁当箱も、「ほしがりません勝つまでは」と、健気にも供出したのです。・・・むしろ自分の弁当箱が飛行機になって、敵をやっつけると信じていたのでしょう。・・・作者は、そういう当時の自分たちの健気さに対する切ない思いや、子どもの大事な弁当箱まで召し上げてしまう戦争の非情さに対する苦い思いを歌に託したのだと思いますNさんのこの解説で、歌の背景やそのときの軍国少女の弾んだ心情、そしてその頃を振り返る作者の苦い思い、いろいろなものが重層的に畳み込まれた歌だとわかりました。なお、トイ・マリカさんが紹介された万葉集のうたはじつに熱烈ですね。私はふと曽我ひとみさんが夫のジェンキンスさんとジャカルタの空港で再会したときの情熱的な抱擁シーンを思い出しました。
君が往く 道の長手を 折り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも (万葉集巻15−3724)
曽我ひとみさんの気持も「焼き滅ぼさむ天の火もがも」という思いではなかったかと推察します。ただこの万葉の歌は相手が防人として出征していく恋人だったようです。作者は佐野茅上娘子(さののちがみのおとめ)で、当時何かの理由で越前の味真野に流されていた恋人の中臣宅守(なかとみのやかもり)にあてて書いた恋文だと言われています。万葉学者の犬養孝さんはこう書いています。
かなしい別れをしたあと、都の娘子と味真野の宅守とは折りに触れて63首の歌を贈答し、その中、娘子の歌は23首である。長期にわたる二人の折々の私の歌が、ともに公開されるという形で、どうして「万葉集」におさめられたかについても、やはり流罪の原因と同様に不明である「万葉の人々」防人の歌は万葉集の巻20に93首、巻14巻に5首おさめられています。そのなかから2首を引用します。
二首とも関東地方から出てきた千丈という防人の歌です。「筑波山の百合のようにいとしい人よ、夜だけでなく、昼間もこうしていとしくてならない」と恋人を切なく思いながら、その一方で、「すめらぎくさと、われはきにしを」と防人の決意をのべています。この両者を並べた万葉集の編者の心はいかなるものか、いろいろ考えさせられます。私が大好きな万葉集の東歌にこんなのがあります。
信濃なる 千曲川の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ(巻14−3400)
作者未詳です。おそらく民謡として庶民の間に歌われたのでしょう。 娘は河原で恋人と別れをします。恋人はおそらく旅に出るのでしょう。それがどんな旅だったのか、都まで年貢を届ける旅か、あるいは防人として九州へ行く旅か、いろいろ考えられます。 信濃の山嶺はまだ白く、千曲川の水も冷たいことでしょう。その流れの中に、恋人と別れたばかりの少女がたたずんでいます。少女の足元の清流を透かして、川底の小石が見えます。彼女は腰を屈めてその一つを取上げて、そして、「あの愛しい人が踏んでいった小石を、これからはあのひとのように大切に思いながら、宝石のように持っていよう」と歌います。
大学時代、私はこの歌をNHKラジオの講座で、犬養孝さんから教わりました。そのとき、犬養さんは、特攻隊で息子を亡くした両親が、特攻基地の あった場所を訪れ、大切に小石を拾って持ち帰っていったというエピソードを紹介されていました。戦争の悲しさは、愛する者と分かれる悲しさです。そうした切なさが、見事に歌われているように思いました。私は「万葉集」が大好きで、HPに「万葉集入門」を書いています。興味のある方に読んいただければうれしいです。
親友のKさんから「いま永井荷風の『断腸亭日乗』を読んでいる。アメリカの友人から勧められた。アメリカの友人は、日本の現代史を研究していて、『今日の日本と永井荷風が日記の中で書いた昭和初年から10年代に非常に似ている』と言っている。たしかに非常に似ていると思う」と言われて、私も読んでみました。同感しました。と書いています。以下、全文は、2005.3.18 2005年森田実政治日誌[70]
崖
戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら
何やら、
火だの男だのに追いつめられ。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつもおんなをまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
15年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。「鬼畜米英」への恐怖もあったかもしれない。が、「生きて虜囚の辱め を受けず」と、捕虜になるより死を説いた「戦陣訓」の影響もあったの だろう。兵士に死を強要する教えが市民の心をも支配した。戦争や軍国教育の狂気を思う。多くの人が戦時中の「美徳」に追いつめられ、崖か ら身を投げた。
昨年十二月に八十四歳で死去した詩人石垣りんさん。作品の一つ X
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彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団 (2003.12.2 追加)
渡辺洋二著 光人社NF文庫 初版発行 2003年12月18日 定価 本体686円+税 |
こういう本がでていたなんて知りませんでした。
特に「オレには航空のことは判らんから」と航空隊司令の代理として出席することになった会議で芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐は、会議での最下級者なのに、練習機を特攻機に仕立てて敵機動部隊に突っ込ませようとする海軍上層部に、「赤トンボまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って 攻撃してみるといいでしょう。私が零戦1機で全部撃ち落としてみせます」とタンカを切って特攻を拒否しました。本がでているので、関係者のかたはみなさん、ご存知でしょうが番組録画しましたので、見逃した方いらっしゃれば、ビデオ着払いで郵送いたします。彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団
◯本日午前九時十五分、東京湾上の米戦艦ミズーリ甲板上にて、わが全権重光(※葵)外相、梅津(※美治郎)参謀総長は、連合軍総司令官マッカーサー元帥らの前に進みて、降伏調印を終る。かくて建国三千年、わが国最初の降伏事態発生す。今日の読売新聞の「編集手帳」は、この「敗戦日記」を採り上げています。9月2日付・編集手帳 X
一読して思うことは、なんとなく、戦争に負けたという事実を雲の上で 感じているような、そんな印象を受けるということでした。いつのまにか負けて、いつのまにか終戦になってたような。もっとも、これは大本 営発表による情報統制も大きかったことでしょうけれど、こういう姿勢が正されない人が多かったために、今の戦争に対する認識の甘さがある のかなあ…と思ってしまいました。Nさんたちみたいに、180度考えが展開した人も多かったでしょうから、一緒くたにするわけには 行きませんが。
ただ、敗戦に備えて遺書を書くという所が、かなりイヤな感じでありま した。捕虜収容所から脱走してしまった人たちも「生きて虜囚の辱めを 受けず」という戦陣訓の教えが、いろんなところに浸透していたんだな と思います。ひどいことを教えたものです。
それと、もう一つ質問なのですが、
このページで、戦時中の夏休みの宿題が掲載されていますが、こういった「宿題」について、いろいろ教えていただきたいのです。どんな些細なことでもいいので、メーリングリストに投稿していただければと思います。こういった夏休みの宿題、ともすれば雑学のような話は、重要なことだけど、あんまり歴史に残らないことだと思いますので。例えば、・どんな問題が出たのか ・自由研究はあったのか といった話です。
一読して思うことは、なんとなく、戦争に負けたという事実を雲の上で感じているような、そんな印象を受けるということでした。
私たちのような子供と違って、海野氏のようないわゆる知識人は、戦争を冷静に、斜めから見ていた感じがします。もっとも当時はいくら個人的な日記でも、本当に思っていることを書くのは危険な時代でした。ですから淡々と事実だけを書いていますので、そういう印象を受けるのではないでしょうか?
終戦の時、一家で死のうとして遺書までしたためたことを、「自分一人死ぬのはやさしい。最愛の家族を道づれにし、それを先に片づけてから死ぬというのは容易ならぬ事だ」などと醒めた調子で書いていますが、実際は心の中ではたいへんな葛藤があったように思います。
早川タダノリ「皇国トンデモ本 皇紀2591年の夏休み」
「皇国トンデモ本」はなかなか興味のあるサイトですね。リンク集にも掲載させてもらいたいと思います。もっとも記憶力が悪いので、当時の夏休みの宿題など憶えていません。お役に立てなくて申し訳ありませんが。
でも私はこの1月28日(土)に、兵庫県伊丹市の「柿衛文庫で「井筒紀久枝、人と作品」と題してお話をすることになりました。もはや語り部活動が出来なくなった母の代わりに、母の戦争体験と俳句について話すのですが、実体験者の生の語りほど心に響くようなお話ができないでしょうし、ましてや俳句について語るとなると今から少し気が重くなっています。
ただ、主催者(大阪俳句史研究会)の方が「その分だけ客観性が出てくれる」とか、また「俳句史資料としてはむしろその方が好ましい」と言ってくださいますので、やってみようという気持ちになった次第です。
母が戦中戦後の混乱期を抜け出せたのも、表現手段として句作という生きがいがあったからです。母の「俳句人生」が、戦争で何もかもを失った一女性を再生させたと言っても過言ではないと思っています。
もし、娘の私が語る「母の戦争体験」やその体験を俳句にした「満州追憶」についてご興味のある方がおられましたら、ぜひご参加ください。私の話し方はとてもつたなくて申し訳ないのですが、しっかりレジメと資料を用意し、内容は充実させるつもりです。下記サイトでも紹介されていますので、よろしくお願いします。参加費は無料です。 講座・句会・催しご案内
また出席された専門家から、お母様が満州時代のご苦労を詠まれた一連の俳句が、俳句界でも高く評価されていることを教えていただきました。まだご存知でない方は、次のサイトでぜひ井筒紀久枝様の自分史や句集をお読みください。 「平和への祈り 井筒紀久枝」
私はこれまで、母の語り部活動に付き添いながら、「やはり実体験者の肉声でないと戦争の実態は伝えられない。何より心には響かないだろう」と思っていました。でもこの会で、半ば「駄目元」で挑んだわりには予想外にも大きな反響を得て、少し見通しの明るいものを感じました。これからも、母に限らず、戦争を語り継ごうとされている体験者がおられる限り、私たちそれを受け継ぐ2世・3世は、できるだけ彼らの肉声を聴き、戦争のリアリティーを追体験して、後世にバトンを繋いでいかなけらばならないという思いを強くしました。
そういう意味でもこのMLは、これからも大きな力となっていくと思いますので、みなさんよろしくお願いします。
「戦争展」の全国的動向――現状と課題
二橋 元長(ふたつばし もとなが)日本機関紙協会埼玉県本部事務局長
「戦争展」の全国的動向――現状と課題
(B)戦争体験をどう受けつぐか、引きつぐか
戦後六〇年を迎え、戦争体験者はますます少なくなり、戦争体験の風化が指摘される今日、ここ数年が「生の戦争体験」を聞くことができるラスト・チャンスとなりつつある。これら体験談の収集、記録化を急ぐ必要があろう。とくに加害体験の収集は急がれている。
「生の戦争体験」を聞けるうちはいいが、時間の流れは非情だ。体験者の記憶を記録として残す作業や「語り部」から戦争体験をきちんと継承し、「語り継ぎ部」を育成して行くシステムづくりが急がれている。
埼玉では、数年前から「語り部」から「語り継ぎ部」へ、と若手スタッフを中心に「戦争体験の継承」を心がけてきた。が、とうてい体験者のように話せないし、話せるはずもない。「生の戦争体験」は、体験したものでなければ伝えられない迫力・臨場感があり、戦争に対する憎しみが大きければ大きいほど、聞くものに「戦争はむごい」「いやだ」「二度とさせてはならない」という思いを抱かせるからだ。
しかし、体験者でないからこそ戦争を語ることができるということも、この間の経験から明らかになった。それは、体験者に求めるのがしばしば難しいとされている「客観的視点」を持ち込みながら、戦争の総体、本質を描くという点で、体験者以上に「リアルに」戦争を語ることができるということだった。
戦争体験を記録しつづけてきた東京では、単に記録するだけでなく、体験から学びとったものを自身の思想・考え方として語っていくことが大事だと、継承・「語り継ぎ部」の役割を整理している。 証言者人が少なくなるなかで、戦争体験の継承と説得力のある戦争展づくりは、正念場を迎える。ここへきて、加害体験を語る体験者が、少なからず登場しているやに聞く。これは貴重なことである。
45年8月6日、僕は爆心地から1・2キロで被爆した。国民学校1年生。学校の裏門でおばさんと話していると、B29の飛行機雲がすーっと延び、B29が後方に消え空が光った。気がつくと塀の下敷き。おばさんは全身まっ黒けで死んでいた。地獄。熱線7000度で焼きつぶすと人は腕の皮膚が垂れる。爆風で粉々のガラス窓が、顔一 面にささった人。飛び出た眼球、腹が割け腸が1メートルくらい出ている人……。ものすごかった。 (新聞記事はリンク切れ)「はだしのゲン」については、 はだしのゲン 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「はだしのゲン」をお読みになった方は、ぜひご感想をお寄せください。
原爆投下後の破壊された町や負傷した人々の様子、人間として死ぬことを許されなかった人々のその無惨な屍の数々は写真や映像で目にすることは多いと思います。その通りのことが全9巻のうち1巻と2巻の最初に描かれ、その後の巻は何も無くなった広島の町でゲンが力強く生きていく様子が描かれています。
原爆孤児となったゲンの目に映る復興までの広島(この「はだしのゲン」はゲンが絵描きとして東京に旅立つまでが描かれていますので、あえて「復興までの」と書きました)は、食料調達のために人殺しまでしてしまう仲間や、闇市の様子、財閥ののさばる姿や、日本政府の怠慢、被爆者を人間として扱わないGHQの有様など、この本を読むまで知らなかったことがとても多かったです。特に、天皇に対するゲンの怒りや憎悪は、私の「天皇の戦争責任」の考え方を大きく変えました。
原爆投下により作り出された地獄絵図はもちろんのこと、生き残った被爆者が偏見や差別、孤独の中でどのように生きてきたのかを、その生き様をしっかりと見つめなくてはならない、我が子や孫までも語り継がねばならないと強く思いました。それは、原子爆弾がどのような兵器であるかを知ることになるからです。広島は投下された原爆により、その日のうちに5万人、 その年のうちに14万人が亡くなり、 この60年間に亡くなった人は24万2437人になりました。 長崎は一発の原子爆弾により、その年のうちに7万4000人が亡くなり、 この60年の間に13万7339人が亡くなりました。しかし、これはあくまでも被爆者手帳を持っている人だけの数であり、自ら被爆者であることを隠したまま亡くなった方、また日本に強制連行され被爆された朝鮮や韓国の人々を含めると、その数は想像すらできません。
原子爆弾という核兵器は、何年、何十年かかっても確実に人を死に至らしめることのできる兵器であり、 アメリカの投下した原爆のために、広島と長崎をあわせ 毎年8000人近くもの人々が殺され続けているのです。「殺され続けている」ということを私たちはもっと深く真剣に 考えなくてはならないと思います。「はだしのゲンはマンガじゃないか」と馬鹿にしてはいけない本です。実は私は読むまではそういう気持ちでいました。機会がありましたら是非読んでいただくことをお勧めします。
東京新聞 新聞記者が受け継ぐ戦争このページの中に■原爆投下■の記事があります。
語り継ぐ意志
源氏物語が不敬文学と呼ばれていた時代があった。谷崎潤一郎は源氏物語を大きく3度にわたって現代語訳したが、昭和10年代の最初の訳は、源氏と天皇の后との「禁断の恋」にかかわる個所を削っていたことで知られる。当局や校閲した国語学者山田孝雄の圧力によるといわれるが、山田の蔵書から経過を知る書き込みが見つかった。古典文学をも圧迫した時代を感じさせるとともに、発禁を恐れた谷崎がいかに慎重だったかを示している。源氏物語は、下記サイトにあるように、戦前の「小学国語読本」にも使われていましたが、それを削除すべきとの声もあったそうです。当時の皇国思想は「伝統と文化を尊重」するものと思っていましたが、いいとこ取りだったのですね。 「源氏物語の受難」
以下全文は、下記ににアップしました切抜きのコピーで読んでください。朝日新聞大阪本社版 2006年5月31日 朝刊切抜き X
谷崎潤一郎は、戦時中も雑誌連載中の「細雪」が、時局に合わないという理由で、連載を禁止されました。当時は“非国民”とにらまれていたのですね。ネットで“不敬文学”を検索しますと、大江健三郎さんの「政治少年死す」も検出されてきました。1961年、雑誌に掲載されたこの小説は、前年に起こった社会党・浅沼稲次郎委員長刺殺事件の犯人をモデルにしたものですが、発表直後右翼から猛烈な抗議を受け、いまだに公刊されていません。
そういえば、最近ノーベル賞作家の大江さんを“反日”呼ばわりする一部の人がいますが、あのいやな時代を思い出させます。
当時の皇国思想は「伝統と文化を尊重」するものと思っていましたが、いいとこ取りだったのですね。
皇国思想では 王朝の文化は国民を軟弱にすると禁止しかねない扱いだったようで、百人一首も 恋歌が多く戦時下にふさわしくない と愛国百人一首 にかえさせました。もともと明治以後 平安時代は 藤原氏が天皇をないがしろにして (民の苦労も顧みず贅沢にふけっていた)悪い時代 と扱われていたので、日本の「正しい伝統」とは されていなかったのではないでしょうか?
丸谷才一氏は 和歌の中心は恋歌だったのに 明治以後 皇室関係者の歌や 歌会始めの入選歌から 恋歌が消えた。 宮中の和歌は 日本の伝統とは違うものだ と言っていますが、 皇国思想がいう 日本の伝統 はかれらの都合で選ばれたもので、それだけを伝統と思うのは間違いです。
この頃 気になるのは 日本の伝統を見直せ などと主張する人たちが 同じように日本の伝統を自分の都合の良いように扱っていることで このMLでも話題になった「国歌の品格」なども武士道だけをもちあげて、王朝以来の伝統を伝える公卿の文化・マナーや 百姓・町人の間に作られてきた文化・道徳を無視しています。 伝統を重んじるのなら もう少し広い視野で見てほしいものです。武士道をもちあげるのが、また戦争をするためでは無いと思いますが、、、。
そういえば、最近ノーベル賞作家の大江さんを“反日”呼ばわりする一部の人がいますが、あのいやな時代を思い出させます。
「細雪」を執筆禁止にしたり 源氏物語 を禁書に近い扱いにしたり こういう「愛国者」にかかると日本の世界に誇るべき文化が なくなりそうです。「愛国者」から日本文化を守る必要が無いことを願います。
現天皇の結婚時のインタビューでは「明仁さん」とTVで呼べる空気がありました。今はちゃんではなく「愛子『様』」なのです。これを進めてしまうのも変えていくのも我々次第なのですから。
昔は「火星チャン」「ミッチー」「ナルチャン」など、メディアでも愛称で呼んでいましたね。今ではあどけない赤ちゃんでも、「様」付けです。ファーストネームで呼び合う外国で育ったママが病気になるのも無理ないですね。
「明仁さん」といえば、先にご紹介しました「明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか」も、売れているわりには、メディアでほとんど採りあげませんね。インターネットで、次のサイトが著者のインタビューを放送しているくらいです。この中で著者の板垣恭介氏も、「書評は“しんぶん赤旗”だけ」と苦笑いしています。
私は林房雄の「青年」で、伊藤俊輔(後の伊藤博文がモデル)が、はじめて天皇の存在を知り、感動する場面を読んで驚きました。後に元老になった、維新の志士たちも、ある時まで天皇の存在を知らなかったのです。彼らが天皇を<玉>と呼んでいたのはよく知られています。天皇の運命がどうなるか。天皇がこれからどう利用されるか。時代の変化とともにそれがどう変わるのか。戦後、中野重治が、皇室を解放せよ。人間としての生活をするようにすべきだと言っていたことが思い出されます。
当時、私は現在の韓国にいた。食べ物に不足することもなく、日本は絶対戦争に勝つと信じていた。だが、鶴は日本の暗部を見抜いていた。再び、あのような時代が来ないことを願うばかりである。
「先の大戦では、われわれから一、二年上くらいの年代が一番死んでいます。今度のイラク戦争の自爆死を見ていると、少なくとも近代においてその先鞭(せんべん)を付けたのは日本の特攻隊だと思いますね。私も茨城県の海岸で毎日、爆弾を抱えて戦車のキャタピラに飛び込む訓練をしていました。まさに自爆、死ぬ訓練です。いったいどこから、あのような酷(むご)い思想が出てくるのでしょう」「集団的に若者が死ぬのが戦争で、その魂は怨霊(おんりょう)となり、後世に祟(たた)ると歴史学者たちは言ってきました。それに対して右の人たちは、天皇陛下のために死んだ英霊が怨霊とはけしからん、といきり立つ。その偏狭で過激な連中に揚げ足を取られないために、私の師匠の折口信夫は“未完成霊”という言葉を使ったのです。若くして非業の死を遂げた者の魂は容易に完成しませんから、同時代の人、あるいはそれからのちの一世紀、二世紀を生きる人たちは死霊を鎮める営みを続けてきました。平家物語を生んだ琵琶語りや盆唄、盆踊りなど形はいろいろあるけれど、そのルーツは歌うこと、歌って祈ることなのです」
「“未完成霊”鎮める祈り 現代に」
私が復員後取りつくろわねばならなぬ生活が、どうしてこう私の欲しないことばかりさせたがるのか、不思議でならない。この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は半分は子供である(「野火 37 狂人日記」)大岡昇平がこの小説を書いていた頃、朝鮮戦争が勃発しています。主人公の口を借りて、作者のやむにやまれぬ本音が露呈しているように思いました。
猿の肉だといわれて食べたのは人肉だった。やがて<私>は同行の兵士が、人肉を獲るために日本兵を撃ち、自分をも狙っているのを知り、すきをみて相手を撃ち殺す。戦争とはほんとうに恐ろしい世界ですね。「野火」はこのようにはじまっています。
私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。「馬鹿やろう。帰れっていわれて、黙って帰ってくる奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院だってなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病病みを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食料収集に出勤している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐りこむんだよ。まさかほっときもしねえさろう。そうでも入れてくんなかったら、死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領しているんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つのご奉公だぞ主人公の<私>はこうして異国の原野に投げ出されます。あちこちに<野火>が戦いののろしのように上がり、主人公は敵兵や地元民のゲリラ、そして友軍日本軍兵士にまで命をねらわれます。そこで交わされる兵隊達の会話を少しだけ抜き出してみます。病気になり部隊を追い出されたものの、病院でも受け入れてもらえず、行き場を失った兵隊たちの会話です。
「また、帰ってきたのか」
「そうさ、やっぱり中隊じゃ入れてくれなかった」
「でも、ここへ来たってしょうがあるめえに」
「行くところがないからさ」
「おい、糧秣いくら持っている」
「ははは、6本ありゃ豪勢だ。お前の中隊は気前がいい。俺んところは2本しか寄越さねえ。それが今じゃ一本よ」
「あーあ、俺達はどうなるのかんなあ」
「いっそ米さんが来てくれた方がいいかも知れねえな。俺達はどうせ中隊からおっぽり出されたんだから、無理に戦争することあないわけだ。一括げに俘虜にしてくれるといいな」
「殺されるだろう」
「殺すもんか。あっちじゃ俘虜になるな名誉だっていうぜ。よくもそこまで奮闘したってね。コーン。ビーフが腹一杯食えらあ」
「よせ。貴様それでも日本人か」
「ニューギニアで人間を食ったって、ほんとですか」
「人間か。まさか、ってことにしておこう」
「要するに下士官なんて、心で何を思っているのか、わかんねえものさ。俺は部下だから、離れるわけにはいかねえが、お前は勝手な体だ。補充兵一人じゃ、さぞ心細かろうが、とにかく一人で行ったがいいじゃないか。それが一番だ」
「燃える、燃える。早い、実に早く沈むなあ。地球が廻っているんだよ。だから太陽が沈むんだ」
「おい、いこうか」
「暗いな、まだ夜は明けていなかな」
「もう開けたよ。鳥が鳴いている」
「鳥じゃないよ。あれは蟻だよ。蟻が唸っているんだよ。馬鹿だな。お前は」
「帰りたい。帰らしてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。南無阿弥陀仏。なんまいだぶ。合掌。何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べていいよ」
「京大俳句事件」や「戦争俳句」については、最近いろいろな書物である程度勉強していたのですが、今回は「京大俳句」結成時の重要メンバーで、なおかつ戦場から生還した数少ない俳人野平椎霞(ついか)氏に焦点を当てられた大変貴重な内容で、また戦時下におかれた俳人たちの苦悩にも思いを馳せることができました。
たった5・7・5の限られた表現世界にも戦時中、治安維持法違反で酷い弾圧を受けた俳人達がいたことや、その一方でやむなく国への迎合姿勢に乗り換えた俳人たちがいたことなどにも興味を持ちますが、野平氏のようにイデオロギーを前面に出すことなく戦争や戦場を写生する素晴らしい「従軍俳句」を遺された方もおられたことに感銘を受けました。
また野平氏は、軍医として応召され絶えず死と直面しながらも、少し距離を置きながら戦場を詠むという、ある意味無難な手法をとって表現され、弾圧の嵐に巻き込まれることもなく、何よりも「人間をやめずに生きてゆく道」を選ばれたことに感動しました。以下の彼の従軍俳句は、中でも大変心に沁みました。戦場の哀感を詠んだものとして、ぜひ後世に残したい秀句だと思います。椎霞氏の人間性もよく出ていると思います。
「京大俳句事件」や「戦争俳句」「戦場俳句」についてご関心のある方は、ぜひ以下の書物も読んでみてください。
ヨシコの / 腕の/胸の / 皮膚がぺろんとずり落ちて / ローソクの火が揺れるたびに / 水ぶくれがつぶれ / めくれた皮膚が光る / 頭が / 顔が / 焼き茄子のように焦げている / 荒々しい呼吸がつづく / ヨシコの口がうごく / オ・カ・ア・チ・ャ・ン / といってるかのようにこの記事の切抜きを、下記にアップしましたので、お読みください。 朝日新聞大阪本社版 2007年5月13日 朝刊
〈ヨシコが燃えた/焼夷弾が/舞いながら/火の粉吹きあげて落ち/それから/爆風に飛ばされて/高架下の橋げたまで/空き缶のように転がっていった/ヨシコとふたりして〉「新編・ヨシコが燃えた」については、下記サイトもご覧ください。
〈叩(たた)きつけられ/突き飛ばされ/もぎとられ/失心してしまった数秒後/眼の前の/枯れ草の傍らで/燃えていた/焼けていた/ヨシコ〉
〈助かった!/ふるえながら一息ついたとき/オテテ キレイニ チテ/ヨシコの唇はたどたどしく動いて/そのまま/息絶えてしまった〉
〈自転車の荷台にくくりつけた/そうめんの箱に/ヨシコの亡きがらを/白い小菊で/埋めていった〉「一つひとつの死 −高校生が撮った空襲−」
「国民学校一年生」7歳の「私」が4歳の「ヨシコ」を連れて、「焼夷弾が/舞いながら/火の粉噴きあげて落ち」る下を逃げ惑う、そんな姿を想像してみてください。戦争が出来る“美しい国”になろうとしている現在、ぜひ読んでいただきたい1冊です。きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 『新編 ヨシコが燃えた』
しかし内検閲が無くなって 中里介山が10年の構想の後発表した「夢殿」が天皇暗殺の記述がある として刊行後に切り取りを命じられ出版社・著者とも大きなダメージを受けたあたりから 編集者による自主検閲が始まったそうでうす。 「夢殿」での天皇暗殺は古事記や日本書紀に記述されていることで これでは古事記や日本書紀を題材にした小説はかけない と介山は執筆を断念したそうです。なお介山は文学報国会ができたとき理事就任を断った ただ一人の作家だそうです。
「続 夫婦ぜんざい」は 戦争批判などの時局批判は全く無いそうですが、この原稿を受けとった雑誌「文芸」の編集長だった高杉一郎氏は 「当局から言われなかったけれど 当時はこういう時局にふれない小説は駄目だ というのが編集者の雰囲気だった」と語り(高杉氏は先日なくなりました。多分これが最後の映像でしょう)時勢」とともに進む自主規制の恐ろしさ を証言しました。 教えられること考えさせられることの多い番組でNHKの良心をかんじます。再放送の機会があれば見られることをお薦めします。
それらの語り部の一人、伊藤桂一氏が新しく対話集を出されたと聞き早速手に入れ,懐かしく一読いたしました。しかし「若き世代に語る日中戦争」という触れこみの小冊子に私はたちまち失望してしまいました。”おやおやこの人はこの程度の人であったのか” この歳になって漸く正体見たり枯れ尾花で、実にがっかりしてしまいました。
兵隊が何のために中国大陸へ駆り出され、あのような酷い経験を嘗めさせられたのか という最も肝心な原因をこの人は次のように言うのであります。“何でもかんでも日本が悪いことになっていますが、あれは中国共産党の陰謀に引き込まれた戦争で・・・・” また “日本軍が何から何まで悪いのだ” とする勝者アメリカのために、国を思い一生懸命任務を果たした兵士の思いはすべて否定し尽くされているのです。”
慰安婦に対しても国の関与は当然であり,彼女らは兵士たちの戦友として多くが納得して貞操を国に捧げた健気な女性としています。たとえ一夜の契りでも、兵士にとっては仏様の化身だったと受益者の立場に立った肯定論で、これまた世界の声と噛み合いません。
下層兵士の代弁者のようなこの作家の語り口は叙情的で、戦場のエレジーややりきれなさを甘美に伝えてくれたのですが,それらの前提がこれでは、とても理屈屋の私が承服できることではありません。日中戦争は満州事変の延長としての侵略であり、兵士らは武藤 章らの無謀な強行論の命ずるままに銃を持たされ、泥靴のまま大陸の奥深くに攻め込んだのであって,慈善事業に出かけたのではありません。そして中国人に与えた数々の暴行は・・・
しかし、“理屈はそうだとしてもお前には兵隊の心が判っていない” という声がすぐに聞こえてきそうです。“お前は野戦を知らないだろう、弾丸の下での戦友の付き合いはまた別、兵隊の心はそう簡単なものではないのだ“ “お前は世話もよくするが、少し変っている。俺はお前のように国をボロクソに責める気にはなれない” その他いろいろと本音が漏れてくるようです。
もう残り少なくなった老兵たちは前の戦争を本当はどう考えているのでしょうか? この際タテマエでなく、ホンネの方を洗いざらえ聞かせてほしいと思います。伊藤氏の言によれば、中国組は殆ど戦闘では負けなかったこと、また戦後の抑留が短かったせいで総体に陽気でトラウマがなく、反省や罪悪感が少ないように論じています。
この人たちの戦友会は “おぉ生きておったか” の戦友愛と、国のために万全を尽くしたという誇りが生き甲斐で,飾られた部隊の武勇伝が心の支えだと言います。ただ多くを語らないのは、結果として負け戦であった以上、言い訳を潔しとはしたくない気持ちから,戦争話は一代限りと、次代に語り継ぎたくないのが寡黙の理由だそうです。
口直しで引き続き古山高麗雄の「二十三の戦争短編小説」を読んでいますが、この方はビルマ、雲南、サイゴンをホンネで伝えています。この中の「プレオー8の夜明け」は芥川賞、伊藤氏は「蛍の河」で直木賞を貰っていますが,これは両賞の差と言うことでしょうか。
三月二七日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数カ所に結集したが、翌二八日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に三九四人の島民の命が失われた。(六年生の社会科郷土資料)「そこにあるのは、愛であった。」……愛、と言えば、すべてが許されるのでしょうか? 今はどこでも、愛、という言葉を無造作に使いますね。小説家をめざす者として、この愛の氾濫には、一言、言いたいです。そして大江は、「追いつめたのは米軍だけか? 母親も幼児もも自分で死を選んだのか? 愛という言葉はこのような言葉か? 問いかけはつづくでしょう。」と結んでいる。昔「なんである、アイである」というコマーシャルがあった。アイ違いではあるが、「そこにあるのは愛であった」など、そうも簡単に言えるものか、私も同じ思いである。
一目ぼれも愛、親に好きでもない異性と結婚させられ、何十年もつれそって、やっと芽生えるのも愛、ストーカーも愛、そして愛国心でよその国を侵略するのも愛、島民に手榴弾を渡すのも愛、愛には、否定すべき愛も含まれます。愛と言えばなんでも許されるのではありません。
私は曽野綾子の本は、読みません。お金を出して、時間をさいて、そんなもの読む気になりません。普通、小説家は、どちらかと言えば、左翼ですが、曽野さんは、すごい右翼ですね。ご主人の三浦朱門氏とは、どういう結婚生活をしてらっしゃるんでしょうね? ま、それはどうでもいいけれど、沖縄の人たちの怒りは正当だと思います。