★犬も供出 ★ねじ曲げられた象の死? ★戦争と動物 ★犬・愛猫問題 ★兵士・庶民の戦争資料館 ★動物たち・社会への復讐 ★かわいそうなぞう 再問題提起 ★軍馬慰霊碑 ★軍馬の帰国は? ★象の話 ★犬も猫も鼠もいなかった ★動物園の「戦争を語り継ごう」 ★「かわいそうなぞう」とシンディ・ローパー ★「そしてトンキーもしんだ」内容紹介 ★「可哀想な像」の真実
我が家では、母がなけなしの指輪を供出したのを覚えていますが、犬は飼っていませんでしたので、この歳になって、初めて聞く話でした。何でも、食用や皮の利用のためだったとか。
当時は人間様でも満足に食べられない時代ですから、犬を飼う家などは少なかったと思います。飽食時代の今は、ペットもブーム、戦力は豊富です(笑)。まさか住基ネットにペットまでは登録されないでしょうね。
ネットを検索してみましたら、次のような話もありました。「犬の消えた日」(金の星社刊)という本にもなったそうです。
(注)供出とは、戦時中、法律により、食料、物資などを、政府が民間に半強制的に売り渡させたことをいいます。
戦争経験者の皆さん、「供出」の思い出をお聞かせください。(N)
これはシンガポール市長を経験し、この時は東京都長官だった大達茂雄氏の命令によるものだということは皆さまご存知でしょうか? 実は調べている過程で「かわいそうなぞう」という作品およびその作品に感銘を受けられた方々の感想などを知りました.作品自体は反戦を訴えるために誠実なきもちで書かれたものだと感じました。
ただ驚いたのは、動物処分が「軍の命令」で実施されたと書かれていることです.ぞうの生命の尊厳を踏みにじる冷酷な軍隊・軍人というメッセージが感じられるのです.しかし軍はそんな命令を出してはいません。
それどころか、これから1年半後に始まる空襲に際して「檻から猛獣が逃げ出したら、市民に危険がおよぶ」と憂慮して、対処しようとした軍人など一人もいなかったにもかかわらず「かわいそうなぞう」では軍はきちんと予測し危機管理をして、人命をすくうために動物を処分した、という逆のメッセージを発信してしまっているのです.これはとても危険なメッセージです。
冗談ではありません.そんなご立派な防空司令部も軍も持たなかったからこそ日本国民はあれだけの大惨害に見舞われたのではないですか.と思いながらも、この「かわいそうなぞう」という作品に、このように書かれた経緯、あるいは「ぐんたい の めいれい」 についての根拠資料がもしかしたらあるのかな、ということについてあるいは作者のことなどについて、も少し詳しく知りたいと思っています。
どなたかご存知ではないでしょうか? 資料関係などがありましたら教えてください。なお「上野動物園百年史」「「もう一つの上野動物園史」産経新聞「あの戦争」および当時の新聞には目をとうしています。
「かわいそうなぞう」は
★「かわいそうな象」 で読みました。 (YM)
かわいそうなぞう の一節です教育出版『小学国語2上』(昭和55年)より
「その ばくだんが,もしも,どうぶつえんに おちたら,どう なる ことでしょう。
おりが こわされて,おそろしい どうぶつたちが 町へ あばれ出たら,たいへんな ことに なります。それで、ぐんたいの めいれいで、ライオンも、とらも、ひょうも、くまも、だいじゃも、どくやくを のませて ころしたのです。
いよいよ、三頭の ぞうも ころされる ことに なりました。」
小学校2年生の子がこれを読んだらどう思ったでしょうか.私のような頭の悪いコドモは「ふんふん、日本の軍隊はそこまで国民のことを心配して手段を講じてくれたんだ」と思ったに違いないのです。
この世代がいま30代後半くらいでしょうか・・・さすがにものすごく頭のいい官僚を抱えている文部省です.こうやって育ったこどもたちがいま大人として有事法案の成立を支えているのでしょう。追記しました。(YM)
戦争中、上野動物園の象やライオンなど猛獣が「処分」されたのは有名な話です。「マヤの一生」という有名な作品、もし読んでおられない方がいらっしゃれば、ぜひ一読をお薦めします。戦争中に犬を飼うのはぜいたくだ、ということで、飼い犬を処分されるのですが、その処分のしかたが残酷です。ラストシーンは心を打ちます。子供の本です。
それから、以下は子供からの質問です。
ある歌のなかに、自分で育てた馬が戦争に行くことになった。駅で見送るとき、万歳、をしなければならなくて悲しかった、というような内容だというのです。どんな歌か、ご存じの方はありませんでしょうか? (MT)
それはともかく、飼い犬や飼い猫まで殺す命令を政府がだしていたとは知りませんでした。 政府のどの部局が、いつ、どのような理由で処分命令をだしたのでしょうか?何か書類とか、あるいは政府の方針として打ち出されたものならば新聞や雑誌にも載っていると思いますので大体の日付けなど教えてください.
飼い犬や飼い猫を飼うことがなぜ贅沢なのか、食糧の問題なのかどうか、当時の人々の考え方を知るうえで興味があります。(YM)
ある歌のなかに、自分で育てた馬が戦争に行くことになった。 駅で見送るとき、万歳、をしなければならなくて悲しかった、というような内容だ、というのです。昭和16年にサトウハチローが作詞した、「めんこい仔馬」のことでしょうか? 戦後は歌詞を少し変えて歌われたようです。
次のHPで曲が聴けます。お聴きになったら、思い出される方も多いと思います。
椋鳩十氏の作品ということなのできっと素晴らしい内容なのだろうと思っています。椋鳩十氏の作品は、綿密な調査の元にかかれたフィクション、あるいは実話ですから、かなり当時のことが想像できるとおもいます。
それはともかく、飼い犬や飼い猫まで殺す命令を政府がだしていたとは知りませんでした。マヤの一生に関して言えば、政府が出していたのかどうかは定かではありません。物語のなかでは、「飼い犬も処分せよ」との命令がでました、と書いてあります。皆がしぶしぶ従う中で、マヤの飼い主、次郎少年は抵抗するのですが、留守の間に連れて行かれてしまいます。
次々と猛獣射殺の軍事命令が全国の動物園に出された中、動物を守ったひとの話が次のHPに書いてあります。
戦争を語りつごうリンク集の、『一兵士の戦争体験』ビルマ戦線 生死の境, 小田敦巳さまの記述の引用です。
馬も内地とは異なる気候で馬糧も乏しく重労働。鼻カタルになって鼻から鼻汁を引っきりなしに出し弱っていく病気になったり、せ・ん・つ・う・(激しい腹痛)で、立っている力もなくなり倒れ苦しんだり、いろいろな熱帯の病気で数頭死んだ。この部分はいつも涙をさそいます。(MT)
馬は本当に利口な動物で人間の愛情によく馴(な)れ、一緒に生活してきたのに可哀相でならない。戦争がなければ住み慣れた田舎で平和な日々を送っていただろうに。
我々兵隊は、馬のために随分苦労もさせられた。しかし切っても切れない間柄となっている。馬が悶(もだ)え死んで行くのを見ると哀れでならない。馬はどんな気持で息を引き取っておるのだろうか、馬は馬なりに死が分かるのだろうか、可哀相で痛ましい。
名古屋動物園の話も読みました.初めて知りました.とても興味深いことです.ただ、上野動物園の処置命令は東京都長官からでていたのに軍の命令という間違った話が流布されています.名古屋動物園の場合も「軍の命令」だったかどうか、今すぐには無理ですが、確認が必要だろうと思っています。
ホームページでは、上野動物園の処分から1年数ヶ月後のことで、現実に空爆の状況においつめられてのことですから、当然の予防措置として治安当局が命じたことはあったでしょう。
今だって人を襲った犬が薬殺されることはありますよね.おまけに銃をつきつけたのは「警官」となっているし、おまけにこっそりと象を助けたのは中部軍管区司令部の三井高孟という軍人だったということが書かれていますね.いずれにしても少し時間をかけて調べてみたいことです.貴重な情報をありがとうございました。(YM)
ことごとく物資が不足していた日本軍でしたが、三八式歩銃の弾だけは日露戦争の時、腐るほど造っていました。終戦まで明治時代の三八式歩銃を使用しつづけたことの理由の一つはタマがありすぎたから、という説もあるくらいです。兵士が弾を惜しんでバットを使用したというのはどう考えても不自然です.銃剣すら使っていない。
だとすると、この命令を出した主体は、銃を持っていなかった、だからバットを使ったのではないか。つまり、地元の自警団とか、警防団とかそういうところだったのではないか。マヤを殺せと「命令した」のは、軍では決してなくて、自警団長のたぐい、つまり横町の旦那さんとか威勢のいい町のオッさんとか、庶民だったのではないか? だから「息子のバット」を使って殺すしかなかったのではないのか、と今は推理しています。
文部省推薦の映画になったそうですが、ここらへんのことはどう描かれているのでしょうね? (YM)
「鉄砲の弾はもったいないのでしょう、バットで撲殺するのです。」いや、これは私が勝手に想像しただけで、いい加減なものです。
ことごとく物資が不足していた日本軍でしたが三八式歩銃の弾だけは日露戦争の時、腐るほど造っていました.そうでしたか。食べ物ものもなかったし、外地では武器もなかったと聞いていたので、もう内地でも弾もないのか、と勝手な想像をしてしまいました。竹槍訓練があった、というので銃もないのかと思っていました。
だとすると、この命令を出した主体は、銃を持っていなかった、だからバットを使ったのではないか.つまり、地元の自警団とか、警防団とか私もそう思います。今手元に本がないので、後で図書館ででもみてきて報告します。子供の記憶では「役人の命令」だったというのですが、ちょっとあやふやです。
文部省推薦の映画になったそうですが、ここらへんのことはどう描かれているのでしょうね?さて、どなたか、ご覧になったら、お聞きしたいですね。(MT)
昭和19年2月、著者は北海道小樽市の国民学校五年生でした.隣組の回覧版で、動物の供出を求められたそうです.「北の兵隊さんに毛皮を送るので家の犬猫は全部出すこと」「出さない家は非国民として厳罰に処し…」そして愛猫クロが殺されていく様が描かれています。
私は、動物を殺害したのは皇軍兵士ではあり得ないと思っていましたが、ここでも何百匹もの犬猫を殺したのは近所の「おじさん」たちでした。しかし一方、その命令の背後には「軍用毛皮」という要請があることもわかりました。これが軍から各隣組に命令、あるいは要請として指示されたものなのか、あるいは小樽市の隣組組織が自発的に供出を思い付いたものか、他の指示系統があったのかどうか、今はわかりません。
ただ、間接的であるにせよ軍の関与はあったのかも知れません。実際に軍で犬や猫の毛皮を使った事例などあるのでしょうか? (YM)
実際に軍で犬や猫の毛皮を使った事例などあるのでしょうか?戦時中、朝鮮半島の犬150万〜200万匹を集団屠畜し、関東軍の防寒服として使ったという話があります。
しかし内地での戦争末期の犬の供出は、軍用というのは名目で、真の目的は食糧難対策であったように思われます。下記のHPは、かつて「犬も供出」というタイトルでご紹介したものです。(N)
実際に軍で犬や猫の毛皮を使った事例などあるのでしょうか?8年間従軍の後、戦後私財を投げ打って「兵士・庶民の戦争資料館」を主宰されておりました武富登巳男さん(昨年永眠)から北支ソ満国境警備兵のコート(外套)の内面に主として犬の毛皮を使用しており、一着当たり犬数匹が使用されたと聞きました。 関東軍100万人の他満壕開拓団など民間人も必要としたと思われますから殺された犬の数は膨大な数になるでしょう。 小生も着用してみましたが、ずっしりと重い感じでした。(TT)
8年間の従軍の後、戦後私財を投げ打って「兵士・庶民の戦争資料館」を主宰されておりました武富登巳男さん(昨年永眠)から北支ソ満国境警備兵のコート(外套)の内面に主として犬の毛皮を使用していた 一着当たり犬数匹が使用されたと聞きました「兵士・庶民の戦争資料館」のHPは、「戦争を語り継ごう−リンク集−」からもリンクしています。
ジョン・レノンの葬儀後の1月18日にヨーコが新聞に載せたメッセージ『私はジョンを守れなかった自分自身と、詩人が撃たれるような社会を作った人々に怒りを感じています。唯一の復讐は、この社会を作り変えることでしょう。そして、唯一の慰めは、それが実現可能であることです。私たちは互いのため、子供たちのために、この地球上に平和な世界を創造することが可能なのだと示さなければなりません』 (YM)
捕獲された犬たちのタイムリミットは5日間です。ぼくらは保護(捕獲)された犬たちのいる棟も見学させてもらったのですが、十数匹の犬たちがまったく吼えなかったのには驚かされました。迫りくる死をまるで達観しているかのようでもありました。犬やネコたちは処分機の中で一酸化炭素を注入されバタ狂いながら死んでいきます。アウシュビッツなみです。
捕獲以外の一連の作業が完全に機械化され、灰を取ることのみが人間の仕事です。ちなみにその灰は埋め立て地に大半が行き、ごく少数は園芸用の飼料(骨粉)行きだそうです。戦時も平時も弱き者、小さきものたちのたどる先は変わらないようです。
ぼくは「障害」を持った人達が戦時中に受けた仕打ち、体験を綴った書「もうひとつの太平洋戦争」の序文の中の鶴見俊輔さんの言葉
「・・・健康な若者が自らの健康と若さにみちたりてくらす流儀の中で,平和への意志が育つとは言えない。戦争時代と身障者という対極のつくりだした思想上の主題は,今の私たちにとって、平和への意志をよみがえらせる一つのいとぐちである。健康に甘んじているものは、それなりに平板な世界の姿をつくりやすく、その故に、平和もまた退屈な、かわりばえのしないものに感じられてくる。健康者はこのようにもろく、このようにおろかだ。」をかみ締めながら、がんじがらめの教育現場で子どもたちに向き合って生きたいと念じています。 (Ya)
この件について気になって調べていたのですが.梨の木舎発行、長谷川潮評論集「戦争児童文学は真実をつたえてきたか」を知り、読みました。そして何と1981年9月の段階で「季刊児童文学批評」創刊号に同様の主旨が展開されていたことを知りました。
長谷川潮氏は「かわいそうなぞう は決してすぐれた戦争児童文学ではないのである」と結論づけてこう書いています。
軍や政府の当局者は、猛獣が市民に危害を加えるのを心配するほど人道的だったろうか。彼らが本当に人道的だったら、庭先の小さな防空壕や、火叩きとバケツによる消火作業などまったく無力であることを、国民に告げるべきだった。B29のような爆撃機の空襲には、軍事的にほとんどなすすべのないことを、正直に言うべきだった。そしてぞうを殺された怒りの持って行き場が破綻した結果、「かわいそうなぞう」の最後の一節は上空を飛ぶ米軍機に向かって「せんそうをやめてくれぇ」(昭和18年の時点ではありえない話)というふうに終わらざるを得なかったと指摘しています。そうすれば、国民はもう少し自分で身を守り、何十万人もの人が空襲で殺されることはなかっただろう。あと半年早く降伏していれば東京大空襲はなかったし、せめて半月だけ早く降伏していれば、広島も長崎も原子爆弾を投下されることはなかったのだ。敗北以外のなにものもないことを知りつつ、あそこまで戦争を続行し、死ななくてもいい人々を多数殺した連中が、猛獣による危害を本当に心配するほど人道的などということはありえなかった。
しかし「かわいそうな ぞう」をはじめとして、人間を守るために猛獣は殺されたという立場から書かれた作品は、虐殺を決定した人々を人道的だと見ていることになるのである。
つまり「かわいそうなぞう」は国民の生命財産を心底心配した帝国陸軍が動物を殺す命令をだしてくれたこと、戦争をやめてくれない「暴虐鬼畜米英」に怒りの矛先を向けるべきことをこどもたちにしっかりとメッセージし、そのメッセージは学校教育の現場を通じてしっかりと伝達されてきたのです。
戦争児童文学の名作なるものが、かくもお目出度く捏造されたプロパガンダであったことを1981年の段階で指摘されていたことをはじめて知りました。この作品の作者 土家由岐夫なる人物にも興味がでてきています。この男はもしかしたら日本の軍国主義復活を目論んでいたのかもしれません。(YM)
あなたは「かわいそうなぞう」というお話を知っているだろうか。舞台は戦時の上野動物公園。日本では「敗戦」という二文字が、人々の頭から離れなくなっていた。人間でさえ食べ物が手に入らないというのに、ましてや動物なんて・・・。とうとう動物達の「安楽死」が決定された。 飼育員は叫ぶ、「戦争のバカヤロウー!」と・・・。(以上、とてもいいかげんな要約でした)そう、事件は突然起こりました。「さーて、つぎはこくごのじゅぎょうだ!」なにも知らず無邪気にはしゃぐ少年「ちょび」今日から国語は新しい課題「かわいそうなぞう」に入る。担任の高岡先生が入ってきた。「きぉーつけっ、れいっ」授業、スタート。歯車が狂い始める。
先生の目元が腫れていることなんて、小2のジャリ供が気付くはずもない。先生は、黙々と教科書を読み始めた。ふと気付くと、先生の声がかすかに震えている。顔を見てみると、頬に涙が。-えっ?せんせいないてるの?-しかし、そこはさすが教員、先生は最後までお話を読み切った。
そして静かに言った、「どうしてみんな泣かないの?」-ほえっ?-ジャリ供の顔が一斉に「?」マークに・・・。みんな必要以上にあたりを見回していた。質問の意味がわからない。「だから、どうしてみんな泣かないのよっ!」次の先生の声は、すでにもう女性固有のヒステリックな金切り声になっていた。頬には滝のように流れる涙。
一方こちらは目が点。ジャリ供には何が起こっているのかわからない。でも、そこはやっぱり「ジャリ」怒鳴られれば、「おこられているのかぁ」ということは理解できる。しかも先生泣いてるし・・・。
でもなんで怒られなければ? 気の弱い子達は、もうすでに泣きが入っていた。もちろん「おこられた」からである。そしてどこにでも必ずいる「おべっか」使い。声にならない声を上げて、「ぼく、ないてるもん。」おいおい、お前小2だろ。将来が楽しみである。教室内は修羅場と化していた。沈黙の中にこだまする、すすり泣くジャリ供の声。先生は黙して語ろうとしない。「だからぼく、ないてるって・・・。」お前はもういい。そしてついに、先生から、驚くべき言葉が。
「泣かない子は家へ帰りなさい!」-ほえほえ?- -なんですと?- もう誰も先生の言葉の意味がわからない。そんなことを言われて、ほいほい帰るジャリがいようはずもない。なぜか先生に許しを請うジャリ供。「せんせい、ごめんなさい。」「なきますから・・・。」変だ、絶対変だ。そしてついに先生から死刑宣告が。「帰りなさい!」一斉に泣き出すジャリ供。もうどうしようもない。泣きながら、とにかく帰り支度を急ぐジャリ供。身の危険を感じているのだろうか。そして集団下校。「ちょび」はこの日、「理不尽」を学んだ。
小3になった少年「ちょび」は、友達と恩師である高岡先生のお宅に遊びに行くこととなった。そこで聞いた先生の一言に「ちょび」は恐怖を覚えた。「また、やっちゃったのよー。」この高岡先生なる人は、子供の心をとてもよく理解してくださる先生なので、小1、2年の担任ばかり任されるのです。そう、つまり「かわいそうなぞう」の恐怖は永遠に続くのである。
つまり「かわいそうなぞう」は 国民の生命財産を心底心配した帝国陸軍が動物を殺す命令をだしてくれたこと、 戦争をやめてくれない「暴虐鬼畜米英」に怒りの矛先を向けるべきことを こどもたちにしっかりとメッセージし、そのメッセージは学校教育の現場を通じて しっかりと伝達されてきたのです。いつ習ったのかどうか忘れたのですが私がこの話を読んだとき、軍が真剣に都民の生命を心配してくれているという感謝よりも、何も悪くない動物たちまで殺すなんて軍はひどい、戦争はひどい、いやだ、と感じたように思います。
よく考えれば、飢餓状態のために凶暴化せざるをえない動物を安楽死させるのは安全保障の問題ですね。しかし、Mさんの話を読むまで、私は思いもよりませんでした。ただ、そういう命令をした軍はひどい、さらには飼育員のおじさんも、ちょっとひどいと・・・やはり、戦争のリアリティが足りないのでしょう。
しかしMさんが紹介されたWEB上に流れていた話のように教える先生によって違うと思います。先生が感情的になってしまったら、たいていはシラケるのがオチと思いますが。そもそも「ちょび」くんや他のクラスの子たちは動物がかわいそうだとは思わなかったのかしら。皆さまの感想も聞いてみたいです。(RH)
海老根氏は、戦争で弟さんを亡くしたことをきっかけに、忠霊塔に興味を持つようになり、退職後に車の免許を取って、近辺の忠霊塔を訪ねて回り始めたそうです。それぞれの碑に関して、写真、住所、県立年月日、著名者、慰霊されている人の数、などがリストされています。柏市にも11基あるそうです。(ただし、軍馬慰霊碑は含まれていないかと思います。)最近では、国立歴史民俗博物館が、海老根氏の調査をもとに、全国で同様な調査を行 いました。「非文献資料の基礎研究」報告書:近現代の戦争に関する記念碑というタイトルで2003年3月に出版されています。このところ、学者たちの間でも忠霊塔にたいす????
「軍馬たちの末路」尚「軍隊まんだら」は先にNさんからご紹介がありましたが、出版致しました。御覧になって下さい。佐藤貞著、新風舎、定価:1300円+税 TS
中国の野戦で軍馬の最後を何度か見た。脚を折ったのか泥濘のなかに遺棄された軍馬の脇を行軍したことがある。雨のなか頸だけを高くかかげて隊列について行こうともがいていた。倒れた軍馬は蹄鉄を外され手綱を切られて遺棄されるとか。恐らく安楽死させるに忍びなくて後続する部隊にそれを委ねて遺棄したのかも知れない。また、私の馬は一晩うなって病死した。横たわる馬の口には、どうしてもうまく末期の水を飲ませることが出来なかった。何か良い方法が無かったのかと今でも悔やまれる。しかし本当の軍馬の受難は敗戦に始まった。それ迄は生きている兵器と言うことで兵以上に大事に扱われていた。敗戦になっても何故か軍馬の引き渡しは行なわれず。寒くなっても広場に繋がれた儘だった。餌不足で痩せこけ、氷雨の降る時などガタガタ震えて立っているのがやっとで、骨で尖った尻が10センチぐらい左右に震えていた。二合ほど入れたカラスムギのエサ箱を棒で押しやって与えた。エサを持って近づくと飢えた馬は狂ったように暴れて抱き込まれてしまうからだ。その僅かなエサも掻き寄せる前脚にひっくり返されて土に散り、口に入るのは幾らも無くなるがどうしょうも無かった。 嵐の晩に二頭盗まれたことが有った。足跡を辿ったら中国人部落の石畳で消えていた。飢えないですむだろうとむしろ安堵して帰って来た。
夜中に密殺して食用にしたこともある。骨は土間に埋めた。固い肉を皆で黙々と噛んだ。冬近くになって、やっと中国軍に接収された。使役に出た戦友から、中国の将校を乗せて元気に歩いている馬を見た、と聞かされて涙が止まらなかった。これで良かったのだと皆と話し合った。私たちは何とか帰る事が出来たが、軍馬で祖国の土を踏んだのが一頭でもいるだろうか。私の地方は馬の産地だったので、軍馬の慰霊碑をよく見かける。その前に立つと、しばし合掌して哀れな軍馬たちに思いを馳せて瞑目する。(この文は朝日ソノラマ、戦争、上巻に掲載されたものです。昭和62.7.31日発行)
輜重隊にも憲兵隊にも軍馬一頭一頭が何処からやってきたものか、購入したのか、徴発したのかの記録なく、止むを得ず廃馬のたてがみの一筋を切り取って編んだと言う乗馬用の鞭が遺品として残っています。これは芯が藤製の物に皮まきしたもので、件の編み紐は手掛けとなっています。何頭分かは知りません異国の地で土になったのは兵士だけでなく馬たちも。「馬を始末する時は本当に嫌なもので、銃口を額につきつけるのは必ず世話をした兵でなければならない。そうでなければ危険を感じて暴れるから。」 TM
全国の子供達からの希望で、「移動動物園」として貨車に揺られて日本全国を回ったとの事ですが、皆様のお住まいの近くにも行きましたか?「二度とゾウを餓死させてはならない・・・」と番組は締めくくっていましたが本当にそう思います。MI
当時、「犬まで供出させられた」とのこと。ウサギがおいしかった、蛇がおいしかった、蛙がおいしかった、イナゴも食べたという話を伺いながら、なんてたくましいんだろうと思いました。このMLでもこのような話は出ましたから、素直に気持に入ってきました。 引き上げ者のご苦労が、今ここで語られていますね。みな、必死で生きていこうとした。 今、私たちにはたえられないと思います。 だから、今の若い人たちはどうして簡単に自殺してしまうんだろうと考える人たちが多いのでしょう。
毛皮にするから、と。
だから、当然、野犬はいなかった。
それから犬は食用になった。
猫も鼠もいなかった。
食べていた。
ふと思いました。
食欲と言うのは、人間の最も基本的な欲望です。
飢餓が、人間の生きようとする本能と強く関わっていたのではないかと。
無責任な発言かもしれませんけど。
というより、また、ずれてるかなあ……
当時、「犬まで供出させられた」とのこと。毛皮にするから、と。だから、当然、野犬はいなかった。それから犬は食用になった。猫も鼠もいなかった。食べていた。ウサギがおいしかった、蛇がおいしかった、蛙がおいしかった、イナゴも食べたと犬や猫が毛皮のため供出させられたという話は、以前出ました。犬や猫がいなかったというのは、人間様が食べるのにも事欠いているのに、とても飼う余裕がなかったということもあります。時は変わって、今やペット・ブームの時代ですが、地球上にはまだ飢えで死んでいく子どもも大勢います。
ウサギ、蛇、蛙、イナゴは、戦時中でなくても、それ以前から農村などでは食べていたと思いますが、猫や鼠まで食べたという話は聞いたことがありません。鼠はわが家の天井裏を走り回っていましたが、さすがに食べることまでは考えませんでした。
時は変わって、ウサギはフランス料理で、蛙は中華料理でいただく時代で、イナゴの佃煮も高価な珍味になりました。ここで↓買えます。
天王寺動物園(大阪市天王寺区)の「戦時中の動物園」展は、06年に始まった。宮下実園長(58)は「戦後60年を過ぎ、戦争関 連の催しが減りつつあった。そういう時だからこそ、動物園から戦争の悲しみを伝えようと、職員たちが考えた」と振り返る。 登録番号180 天王寺動物園「戦時中の動物園」展
会場には殺処分された上野動物園の猛獣たちのはく製も展示されている。耳を澄ませば、雄ライオン「アリ」のたてがみから無念のうなりが漏れてきそうな気配である。「発信箱:忠犬たちの夏=玉木研二(論説室)」X
シンディがこの童話に出会ったのは、初めて日本へ来て広島の原爆記念館を訪れた時のことです。彼女が「このような戦争の悲惨さを伝えていくため、私にできることがあればやりたい」と言ったら、この本の英語版を紹介され、一読して泣いてしまったそうです。この童話を息子さんが赤ちゃんの時から読み聞かせ、朗読のレコーディングの時も、息子さんに対するように思いを込めて読んだとのことです。 「シンディ・ローバーさん かわいそうなぞう英訳版の朗読で平和への願いを訴え」
「かわいそうなぞう」の紙芝居は下記で見ることができます。 「紙芝居お部屋 今月のお話 かわいそうな ぞう」
「かわいそうなぞう」の作者つちやゆきお こと土家由岐雄が戦時中に書いた児童文学「昭南島」のあとがきです。Siさんなら涎を垂らして欣喜雀躍しそうな名文ではありませんか。こんな男が、戦争に児童を駆り立てた反省もなく「かわいそうなぞう」を書き「せんそうをやめてくれぇ」と、上空の「B29」に向かって叫ばせるのです。これは戦後も土家の心の中で「にくい米英」との戦いが続いていることを示しています。 そのシンデイイ・ローバーとやらいうあほたれにもこのことをぜひ教えたいものです。
「わたしがこれを書きはじめたのは、大東亜戦争が起る半年以上も前のことでその頃、私は全身の血をたぎらせて、にくい米英と心のなかで戦いながらこの物語を書いていました。そして、いま日本が世界のどんな立場にあるか、また、日本に対して米英どもがどんなことをたくらんでいるかを、この中にわかりやすく書き入れて一刻も早く、諸君が私とともに、腹の中で米英と戦ってくれるようにと力をそそいだのであります・」
戦車隊にいた司馬遼太郎が「避難民は轢き殺して行け」といわれてショックをうけたという話と同根です。満州ですたこらさっさと逃げた関東軍のため数多の無辜の悲劇があったというのも同根です。大空襲にうちひしがれた国民にむかって「お上にお詫びしろ」と叫んだ朝日新聞も同根です。
にもかかわらず、まだ起こってもいない、しかし将来起こるかもしれない国民の悲劇を心配をして猛獣殺害を命じてくれた親切で立派な帝国陸海軍という妄想を子どもたちの頭にきざみこむというSiさんなら涙を流しながらワルツを踊りそうな犯罪的視点をNさんは支持しておられる。 このこともシンデイイ・バーローとやらには ぜひ伝えたいもんです。
論点が全くちがいます。同感です。 私は何も土家由岐雄やシンディ・ローパーに格別の心情的な思い入れはなく、彼らを賞賛しているわけではありません。まして彼らの「犯罪的視点」に“同調”したり、“支持”しているわけではありません。ただいつも皆さんにご提供している情報の一つとして、客観的な事実をご紹介しただけです。
西羽さんが同調されている次の論点はもっと犯罪的です。 軍が国民の生命の危機を心配して猛獣の殺害を間接的に命じた、とする犯罪的な見解です。私は、<軍が国民の生命の危機を心配して猛獣の殺害を間接的に命じた>という見解の後段はともかく、前段にはまったく同調してはいません。どういう根拠でそう決め付けられるのでしょうか?
軍が空襲の被害をできるだけ防ごうとしたのは、国力ひいては総合戦力の損害をできるだけ少なくし、また民心の戦意喪失を防ぐという意味からでしょう。「国民の生命の危機を心配して」ではないと私も思います。神戸の動物園で憲兵隊までが圧力をかけてきたというのも、決して国民の安全を第一に考えたものとは思われません。
他の例を挙げれば、「学童疎開」を企画・立案したのも文部省でなく、当時の陸軍省防衛課長の上田昌雄中佐(上田博章さんのご尊父)だったと聞いています。これも、上田昌雄氏個人の思いはともかく、陸軍としては学童たちの生命を守るというよりも、防空や本土決戦の足手まといをなくし、また次代の戦力を温存するという目的でした。
当時の軍国主義教育はわれわれ少国民を天皇の醜の御盾として練成することを目的としていました。大日本帝国が私たちの生命を鴻毛のように軽く考えていたことは、身に滲みて知っています。ところでYMさんは<(軍が)猛獣の殺害を間接的に命じた>という 後段の見解も「犯罪的」として否定されるのでしょうか? もし肯定されるのであれば、その命令の理由は何とお考えになりますか?
まだ起こってもいない、しかし将来起こるかもしれない国民の悲劇を心配をして猛獣殺害を命じてくれた 親切で立派な帝国陸海軍という妄想を 子どもたちの頭にきざみこむという小学校低学年以下の子で、あの童話を読んでそこまで妄想をたくましくできるのは、YMさんのような神童だけじゃないでしょうか? ほとんどの子は、ただ単純に殺された動物に思いを寄せて、戦争は恐ろしい、戦争は悲しいと感じるはずです。帝国陸海軍は親切で立派であったと感じるよりも、非情であったと感じるのがごくふつうの反応と思います。
[no_more_war:21322] でご紹介した紙芝居では、どういう理由か、原文から「ぐんたいの めいれいで」という部分が省かれていました。こうすれば事実に忠実で、よけいな誤解を与えずにすむという 配慮からでしょうか?
だから私は、この本の作者がどれほど酷い人物か、また書かれた主題がどれほど酷い歪曲とプロパガンダに満ちているかをご紹介し、この本には全く価値がないことを説明しようと思いました。 「それでこの本の価値が大きく下がることはないと思います」 というのは客観的事実ではなくてNさんの「ご意見」ですよね?
それにしてもどこかの田舎の山中ならまだしも、東京のど真ん中で空襲にきたB29の編隊に向かって飼育係が空見上げ「戦争をやめてくれぇ」と口々に叫ぶ光景など現実には(局所的な例外はあったかもしれませんが)あり得ません。 空襲を体験された方のご意見を伺いたいものです。 しかも動物虐殺のあった昭和十八年には、まだ国民は戦勝気分の余韻に浮かれていた時代であり、戦場は遠い南方で、現実にB29が上空に飛来するのは昭和19年の末のことです。
こんなイメージを子どもたちに読み聞かせることに意味があるのか?甚だ疑問です。ただ歴史に対する子どもたちの誤解を後押しするだけです。 そんな細かいこと、たかがこども相手にどうでもいいじゃないかという立場は私はとりませんし、たとえこども相手でも事実は正しく、あるいはファンタジーであるなら価値あるファンタジーとして出版するべきだと思っています。
軍が国民の生命の危機を心配して猛獣の殺害を命じた(あるいは間接的に命じた)というのはこの本の主題の一つです。 だから同上の根拠でこれにも同調されているのだと思いましたがこれは私の誤解だったのですね?
「小学校低学年以下の子供」の感受性を舐めてはいけないと思います。あの本を読めば、神童のことはわかりませんが私がそうだったように感受性だけが強くしかし頭の悪いこどもは、戦争は恐ろしい、悲しい、というイメージと同様に漠然とながらも、信頼し頼りにできる軍隊、というイメージを記憶のどこかにとどめるのではないかと思います。もちろん個人差はあるでしょうが。 だからこそ児童文学者土屋は「かわいそうなぞう」を書いたのです。
N様がおっしゃっているとおり、動物虐殺は国力ひいては総力戦力の損害をできるだけ少なくし、また民心の戦意喪失を防ぐという意味からであったというご意見に私も賛同しています。昭和十八年という時点ですから内地ではまだ戦勝気分が抜けきらず、たるみきった国民どもに対する一種のショック療法、見せしめとして軍も関与しながら動物虐殺の決定が行われたというのが事実に近かったのではないかと私も思っています。
そんな自分勝手な人間の都合による「見せしめ」というくだらない理由で尊い命を奪われていく象たちの運命こそは真に悲惨で哀れです。 もしも土家がそのような馬鹿らしく愚かな出来事としての動物虐殺の悲劇をこどもたちにイメージさせることに成功していたとすれば、「かわいそうなぞう」は真に大きな価値をもつ児童文学書となり得た可能性はあったと思います。
最初にこの話をご紹介された21331 の文をN様は 「それでこの本の価値が大きく下がることはないと思います」 としめくくっておられることから、最初にご紹介したのは21322です。 それに対し、YMさんがこの本を「インチキ本」とか「出鱈目」とか痛烈に批判されましたので、以前「軍の命令はなかった」と言われていたのを思い出し、過去の事実を検証して、上野動物園の場合は確かに軍命令はなかったが、間接的に軍の意向が反映されているのではないか、それゆえこの本の記述には誤りがあるが、そのことで価値が大きく減じることはないと思うと申し上げたのです。
今回のYMさんの詳しいご説明で、私の老化した頭でも、真意はよく理解できました。 YMさんのご意見は、ユニークかつシニカルなものが多く、いつも楽しませていただいていますが、それが時として誤解を生み、いらぬトラブルを生じたりします。そこで真意を確認するため、あえて異論を呈させていただいたわけです。
これで皆さんも、なぜYMさんがなぜそれほどまでに批判されるのか、よくお解かりになったことと思います。「かわいそうなぞう」を読んだことのある方のご意見もお待ちしています。
追記しますれば、数年前とでは考えが同じことあれば勉強をしながら考え方を変えていくこともありますので、よろしくお願いします。
「かわいそうなぞう」については今の私の中で重さ順にいえば
一 作者自身のいかがわしさ、インチキさ
二 内容の史的事実の誤り、こどもの感性に対する不誠実
三 帝国陸海軍および権力に対する戦前から一貫した好意
とでもなりましょうか。
「かわいそうなぞう」については今の私の中で重さ順にいえば作者と、事実と、作品の関係 作者の人格に疑問。 さもありなん。 YM様の言わんとするところ、やっと理解できました。
一 作者自身のいかがわしさ、インチキさ
二 内容の史的事実の誤り、こどもの感性に対する不誠実
三 帝国陸海軍および権力に対する戦前から一貫した好意 というコメント。
そこで猛獣の殺害が起こったのです。私の知っている限りでは、ドイツ、英国の動物園でも猛獣の殺害を行いました。 私は1943年に3年生として西宮市の学校から兵庫県の宝塚の遊園地に遠足に出かけたら、象舎に象がいなくて、1週前に殺害した象の皮を干していました。 我々より1週前に同動物園に行った隣の学校の話では、殺害した象の解体をしていたので、動物園中にその悪臭が蔓延して、吐き気がするほど酷かったと申していました。
文献によると、上野動物園の象は毒入りの餌を食べなかったので、係員が困惑し、結局水不足攻めにしたそうです。水をくれないので、象は最後には自分の小便を飲むほどにもなったそうです。 名古屋では象の飼育係が象は猛獣ではないと、哀訴嘆願したので、殺害されなかった。そのために敗戦後に上野動物園は名古屋動物園から象を借りて、上野駅から動物園までノッシノッシと象が進んで大変話題になりました。 その後に印度のネール首相から上野動物園は象をプレゼント して貰いました。
本格的な空襲は1944年11月に起こったのではなく、1944年6月中旬から始まっております。中部地方以東の方は知らないでしょうが、米軍は中国の成都にB29用の飛行場を作らせ、カルカッタからB29用の燃料、爆弾、焼夷弾、その他の機材を運搬し、同年11月末までに8回、主に北九州一円を空襲しております。
この第一回の空襲では大阪以西に空襲警報を発令しています。この日の夕方から西宮市でも警戒警報がなり、夜になって就寝していたら、夜中に二度も空襲警報がなって、不完全な防空壕に避難しました。それ以降は空襲の危険が迫っている地方にだけ空襲警報を発令することになりました。そうでもしないと北九州の度に空襲警報を発令していたら、西日本全域が寝不足になるからです。
1944年7月にサイパンが失陥し、そこから同11月以降には日本全土を空襲することが可能になりました。それ以降のことは皆さんもご存知でしょう。
それから、本格的な空襲については、舞台である上野動物園の昭和18年の動物虐殺時に B29が東京上空を飛んでいたという「かわいそうなぞう」を批判して書いたものですから、これは東京に絞ってお考えください。 もちろん、ドゥリットルによる昭和17年の東京初空襲にも文脈上配慮しておりません。
バトルオブブリテンの頃ですからイギリスでも似たような状況だったかもしれません。 どちらの国にも、猛獣による市民の被害を防ぐための意志決定を行った人物がいたのですね。
私は1943年に3年生として西宮市の学校から兵庫県の宝塚の遊園地に遠足に出かけたら、象舎に象がいなくて、1週前に殺害した象の皮を干していました。AIさん何でもよく憶えておられますね。私のパソコンに、1943年の初めごろ(国民学校3年生)家族で宝塚動物園に行った時の写真を保存していますが、象がいたかどうかの記憶はまったくありません。
ところで戦時中の動物園での猛獣処分の実態を調べて、ウェブサイトで発表している、奇特な人がいます。 「戦時中の動物園」 これによりますと、宝塚動植物園での猛獣処分は1944年3月5日とあります。これが正しいとすると、AIさんが遠足に行かれたのは、あるいは1944年3月ということになりますね。
なお宝塚大劇場が閉鎖されたのは1944年3月4日で、その後海軍に接収され、8月25日にESさんらの予科練生が奈良から移ってこられました。もちろんその頃はすでに象はいなくなっていたのですね。
(絵本のラスト)東京に爆弾の雨が降るようになったのは、それから・・・1年と2か月も、たってからのことでした。
これではたして子供は「悪いのは軍隊だ」と感じるでしょうか? これでは、悪いのは戦争であって「日本軍は悪くない」というメッセージしか伝わらないのではありませんか?この「かわいそうなぞう」は1970年から2002年の32年間にわたり小学校の2年生教科書に掲載されました。2年生の子の反応としては、やはり宮下春子さんの教え子のように、軍隊を「ひどい」「こわい」と感じ、そして「戦争はいやだ」と思うのがふつうではないでしょうか? これを習ったのは、今45歳から12歳の年代です。私の子供も孫も該当します。この年代で、<戦争では人がたくさん死ぬのは仕方がない>と考える人や<南京大虐殺を否定する愚か者>がそれほどたくさん育っているとは思えませんが…。
この作品の価値観は、戦争は嫌だ、でも戦争では人がたくさん死ぬのは仕方がない、とする誤った考え方を植えつけてしまうのではありませんか?
なぜそれが危険かと言えば、その延長線上には、いったん戦争になったら、それは戦争なんだから中国人がたくさん死ぬのは仕方がないと容認してしまう。その結果、恐ろしい惨状から目をそむけ軍の犯罪性を見落とし南京大虐殺を否定する愚か者を育てる事になるのではないでしょうか?
東京大学総合博物館標本研究室に保管されている 『戦時中の猛獣処分で殺された象の下顎骨』 と伝えられている標本があるが、これはあり得ない。 何故ならば、この標本は15〜20歳未満の物で、殺処分された3頭の象ジョン=23〜24歳、トンキー=21〜22歳、ワンリー=28歳ぐらいであると遠藤秀紀東大総合研究所博物館教授が鑑定した。 また、「かわいそうなぞう」には死んだ象の上空を敵機が来襲する様が描かれているが B29による東京への初空襲は1944年11月で都長官 (部署については記載されていない) による猛獣処分命令が1943年であり、命令から一年以上前である事から ありえない。 これらの事情から推察すると 『逃げ出して人に危害を加えるのを防ぐ』 と言う理由には切迫感が薄く、上野動物園初代園長を務めた古賀忠道氏(1986年死去) は,国民に戦況の厳しさを伝え、警告するのが目的だったのだろうと戦後語っている。 事実、処分を知った子供からは 「動物達を殺させた米、英を討たねばなりません。」「仇討ちをしたい。」 と言う手紙も届いた。と言った内容です。 戦争の事実を伝える事の難しさ、戦争芸術は時には作者の思いがけない想像の産物になりかねないと言う事を改めて思い知らされた記事でありました。
動物園の猛獣を殺したのは東京だけではなく、大阪、名古屋も同じです。 ただし名古屋では象を殺さなかったのです。 名古屋動物園の象の飼育係が 「象は猛獣ではない」 と哀訴嘆願したので、殺さなかった。 それで戦後に名古屋の生き残った象を東京に運んでもらって、「象列車がやってきた」 という有名な逸話を生んだのです。 映画にもなりました。 上野駅から上野動物園までノシノシと歩いたそうです。
当局は空襲の切迫感を感じさせるために、猛獣をまず殺して、庶民に空襲を啓蒙したのですが、「勝っている、勝っている」 と報道するから、空襲の切迫感がなかったのです。 猛獣を殺したことはロンドンでも行っており、多分1942年に英国から帰国した吉田茂英国大使、辰巳中将などが 日本でも行うことを進言したのでしょう。
ML22035で象を殺した件が出ており、東京初空襲が 1944年11月となっていますが、東京初空襲は1942年4月です。 私が ML22034と22028 に記載しました。 この空襲を記憶しておられる方は 少ないでしょう。岐阜新聞の記事をそのまま記入しましたので調べもせず申し訳ありませんでした。 1943年9月4日には上野動物園の多くの動物が殺処分され、「時局捨身動物」 として慰霊祭が催され、23日に象のトンキーが飢餓死したと記載されています。
猛獣を殺したことはロンドンでも行っており、多分1942年に英国から帰国した吉田茂英国大使、辰巳中将な どが 日本でも行うことを進言したのでしょう。と、岩本さんがお書きになっていますが、ぼくの記憶にある話とは、だいぶ違っているようです。 ロンドン動物園は、ロンドン動物学協会が管理していますが、その協会はロンドン中心部から40キロほど離れたWhipsnade(日本語ではホイップスネイドと呼ぶそうです)という村に広大な土地を所有していまして、ロンドン動物園の動物たちは、戦時中、その場所に疎開していたはずです。
かつてぼくがある掲示板で投稿するたびにウヨクに絡まれていた頃、英国の動物愛護事情などをちょっと話題にすると、決まって英国の悪口を書いてくるウヨクがいたものです。 本当に事実であれば、男は黙って札幌ビールでいくしかないのですが、まるで上野動物園と同じように、ロンドンでも動物が殺されたかのようなお話を聞くと、お茶ものどを通らなくなってしまいそうなほどにショックなのです。 ですから、この際、その情報の出所を確認したいとおもいまして、こうしてまた登場した次第です。
もちろん、AIさんが特別に英国に対して、ウヨク的と言いますか、会田雄次的と言いますか、何か偏見を持っているなどとは、ぼくは想像すらしていませんが。
シンガポール市長から東京都知事に就任した大達氏が動物の毒殺を指示しました。 同氏は 「空襲時に動物が檻から出てきたら大変」 という発想で、これを命令しましたが、同氏はシンガポール市長として 「勝ってる、勝ってる」 という報道で国民に空襲の切迫感が乏しいことに警告を発したかったそうです。