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男装の麗人川島芳子

1906-1948
川島芳子は1906年、清朝筆頭皇族「粛親王しゅくしんおう」の王府(現・北京市東城区)で第14 王女愛親覚羅顕子けんしとして生まれた。 後に漢民族風に「金壁輝」と称した。

清朝末期の1900年(明治33)、 義和団事件(北清事変)の鎮圧に日英米露独仏等の連合軍が出動した。 この時、欧米軍の中には施設を破壊したり、紫禁城の宮女を襲ったりする者が多かったのに、日本軍は軍律が厳しく王宮の秩序が良く守られた。

このことに感動した民生部大臣粛親王は、傾きかけた清朝を立て直すには、日本と提携するほかないと考え、まず日本を良く知る手段として良き日本人顧問を得ようとし、白羽の矢を立てたのが陸軍通訳官の「川島浪速なにわ」であった。

事変後、川島は粛親王に懇望され、軍の了解を得て北京に留まった。 彼は早速、清の朝廷から正二位に叙せられ、警視総監のような地位を与えられ警察制度を整備し、警察学校を設けるなど見るべき功績を挙げた。

1911年(明治44)10月、「袁世凱」による「辛亥革命」が勃発、中国を300年間支配した満人の「清朝」が倒れ、翌年「中華民国」が成立した。 粛親王一家は日本の軍艦「千代田」で旅順に逃避し、川島も同行した。

粛親王は蒙古に領土があり、兵力も持っていたので、旧部下だった袁世凱の革命政府を打倒して清朝を復活することを考えたが、その為には彼の持つ兵力だけでは足らなかった。 そこで彼は、日本の援助を得て目的を果たした上は、満州を日清雑居地とするという構想で日本の軍部や政府と接触を始めた。 時の大隈内閣(1914/4-1916/10)は満州独立に関心が有ったので、粛親王援助の交渉相手に代理を立てるよう指示した。 そこで粛親王は「川島」を代理人に指名した。

日本政府は “川島のような三等通訳官では” と相手にしなかった。 川島の手腕を深く信じていた粛親王は、それでは王家と親戚になれば文句はあるまいと「金壁輝」を川島浪速の養女にし「芳子」と言う日本名にした。 当時9歳の彼女は日本に渡り、東京豊島師範付属小学校から跡見女学校に進んだ後、川島の転居にともない長野県松本高等女学校(現松本蟻ヶ崎高校)に転校した。

川島浪速の自宅は浅間温泉にあったので、彼女は馬で通学し、人びとの注目を浴びた。 しかし、授業を勝手に休むなど校則を無視し、素行は良くなかった。 17歳で自殺未遂事件を起こして断髪し、女を捨て自ら男として生きることを決心した。 その原因は山家亨少尉との恋愛問題であるとも、養父浪速に関係を迫られたためであるとも言われている。

1922年(大正11)2月17日、旅順から粛親王の危篤の知らせが届いた。 芳子は養父浪速とともにかけつけたが、父の死に間にあわなかった。 粛親王は失意の内に旅順で亡くなった。 半年後に帰国したが、松本高女への復学は許されなかった(当時の校長は歌人の土屋文明)。“芳子の行動は、学校の秩序を乱すので、受け入れることができない” というのが理由であった。 それ以後、芳子は家庭で養父独自の教育方針で育てられた。

1927年(昭和2)、芳子20歳のとき旅順で蒙古族将軍パプチャップの次男カンジュルジャップと結婚したが、夫の親族となじめず、2年ほどで離婚した。 そのご彼女は男装して、父粛親王の遺志である清朝再興を期し、上海に渡り上海駐在武官田中隆吉少佐と交際したことから特務工作に関わり、満洲事変や上海事変では日本のスパイとして暗躍した。 「男装の麗人」という言葉は、作家・村松梢風が彼女を描いた小説のタイトルに由来すると言われている。

1931年(昭和6)、満州事変が起こると溥儀の妃「婉容」を天津から脱出させた。 翌年上海事変勃発の動機となった日本人僧侶に対する暴行事件を仕組んだのも彼女であった。 1932年、清朝最後の皇帝であった溥儀を担いだ満洲国が成立すると、川島芳子は新京で満洲国女官長(満洲皇室の護衛係)に任命された。 1933年には関東軍に担がれて満洲国安国軍(定国軍)総司令となり、熱河作戦に従軍した。 関東軍は清朝王女に率いられた満洲国義勇軍と宣伝した。

晩年の川島芳子↓
やがて、関東軍は川島芳子をもてあますようになり、1936年(昭和11)、日本に送り返した。 彼女は日本軍の満洲での振る舞いなどを批判するようになり、軍部からは危険人物として監視され、暗殺計画もあったという。 その頃、昭和の天一坊と騒がれた相場師伊東ハンニと同棲したり、天津で中華料理屋を経営したりした(この頃笹川良一らの日本人右翼とのつながりがあった)。

当時、川島芳子は李香蘭として知られた山口淑子と親密な関係にあり、川島芳子の愛人の山家亨と山口淑子の関係を川島芳子が疑ったエピソードなどを山口淑子は彼女の自伝に記している。 川島芳子の父粛親王善耆には5人の夫人との間に38人の子女がいた。 川島芳子の妹愛新覚羅顕gあいしんかくらけんきは、著書『清朝の王女に生れて』(1986年、中央公論)を出版している。 また、川島芳子の姪廉?(日本名川島廉子)の娘が母の伝記『望郷』(川島尚子著、2002年、集英社)を出版している。

太平洋戦争終戦の1945年(昭和20)秋、国民政府に捕らえられ、河北高等法院で死刑の判決を受けた。 川島芳子は自分が日本人であることの証明に日本から戸籍をとりよせようとしたが、養父は戸籍に登録していなかった。 そのため戸籍で日本人としての証明が出来なかった。 1948年(昭和23)3月25日早朝、再審も空しく漢奸(国賊)として北平第一監獄で銃殺された(41才)。 銃殺された遺骸のポケットから出てきた一枚の紙切れには、少女時代から芳子がいつも口ずさんでいた詩が書いてあった。

家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
替え玉処刑説もあるが?。 それによると1953年5月まで生きていたとか。 しかし、表向き墓は日本の松本市にあり、養父と並んで眠っている。

彼女の遺品は甥の愛親覚羅連紳さん(大学教授・湖北省武漢在住)や北京公文書館に保管されている。 松本市の「日本司法博物館」内にある川島芳子記念室は2001年(平成13)3月23日(芳子の命日)に遺作歌集を出版した。 達筆な芳子の遺稿は万葉仮名や変体仮名を用い判読困難のため、連紳さんの友人で埼玉県に住む吉田恭治さんが3年掛かりで解読した。

花散らば君にささげと言いおきて眠りに落ちん國もなき和子

なお、日本司法博物館は2002年(平成14)、松本市に引き継がれ「たてもの野外博物館松本市歴史の里」と改称された。川島芳子記念室は歴史の里内の展示棟にある。


【参考サイト】 ★井上篤夫の眼 川島芳子 ★川島芳子 - Wikipedia ★生島治郎『乱の王女』
ドラマティックメッセージ 川島芳子 〜薔薇の仮面〜

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